1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争勃発。
1945年(昭和20年)8月14日、トヨタの挙母工場は空襲で約4分の1が破壊された。翌15日、終戦の玉音放送。日本の敗戦。
1945年9月25日、GHQ(連合国軍総司令部)は、トラック製造の許可を発令。同年12月8日に民需転換の許可を得たトヨタ自工社長の喜一郎は、戦後の会社再建の陣頭指揮をとる。
一方、GHQは経済民主化を実行に移すため、1945年11月6日に「持株会社の解体に関する覚書」を発令し、財閥解体に着手した。その前提として、同月24日財閥本社とその傘下企業の通常業務執行以外の資産移動を広範に制限する「制限会社令」が公布される。トヨタ自工は、持株会社の指定を避けるため、同年11〜12月に社名変更などの予防策を講じた。その結果、トヨタ自工自体の解体は免れたものの、1946年4月27日、制限会社に指定された。
1946年(昭和21年)10月19日、「戦時補償特別措置法」と「企業再建整備法」が公布された。その結果、トヨタ自工本体を存続会社として残し、名古屋市に所在する中川工場(旧愛知工場)の一部および刈谷町の電装工場と紡織工場の計3工場の事業を第二会社として分離独立することとなった。
1949年12月16日、再建整備計画に基づき、トヨタ自工の現物出資により、資本金1500万円で日本電装が設立された。後にデンソーと改称される。同日、愛知琺瑯が資本金400万円で設立。1950年5月15日、紡織部が分離独立した民成紡績が設立され、その後1967年8月に豊田紡織と改称。2004年(平成16年)10月にはトヨタ紡織と社名を変更している。
図4には、表1に示し切れなかった1930〜1950年代のトヨタ草創期に製造された乗用車とトラックの車両系統図を示す。
1949年(昭和24年)のドッジ・ライン※2)の影響でインフレ不況に陥る中、普通トラックの需要が鈍化し、トヨタの債務も増大し、業績が悪化した。1949年10月、1000人以上の人員整理の発表後に激しい労働争議が起こり、早期優遇退職を進める経営側と全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会の対立が激化した。この労働争議は2カ月に及んだものの終結する。
※2)ドッジ・ライン(Dodge Line)は、戦後占領期の1949年(昭和24年)2月、日本経済の自立と安定とのために実施された財政金融引き締め政策のことである。インフレ、国内消費抑制、輸出振興が軸となっている。GHQの経済顧問として訪日したデトロイト銀頭取のジョゼフ・ドッジが、立案、勧告した。1948年(昭和23年)12月、GHQが示した「経済安定9原則」の実施策で、ドッジ・プランとも言う。緊縮均衡予算と1米ドル=360円の単一為替レート設定などにより、財政の立て直しと、国際通貨体制へのリンクを図った。結果として、それまでのインフレは収束したが、代わりに深刻なデフレ不況が発生し、失業者が増大し、企業の倒産も相次いだ。
1950年(昭和25年)6月、この事態の責任を取るため喜一郎は社長を退任し、東京に研究所を設立してエンジンの研究などに従事することになる。
1950年は朝鮮戦争による特需があり、1950年の1年間だけで1億4988万9000ドル(当時のGDPの約5%)を受注し、市況は好転した。1955年(昭和30年)以降の自動車需要増から設備の近代化がはじまり、量産化/コスト低減を目的とした「設備の専用化・自働化」の推進が始まることになる。(次回に続く)
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network,デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。自動車技術会フェロー。
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