トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第2回は、1950〜1955年にかけてトヨタのクルマづくりがどのように進んでいったのかを見ていく。軸になるのは、初代クラウンである「トヨペット・クラウンRS型乗用車」の開発と生産に向けた取り組みである。
前回からトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革についての連載を開始した。連載第1回は、戦前から戦後直後の1930〜1950年における、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎※注)の思いや、日本の自動車市場、トヨタの自動車事業への挑戦、挙母工場における「ジャストインタイム」の狙いなどについて述べた。
※注)本連載では人名の敬称を略して表記します。ご了承ください。
今回は、1950〜1955年のトヨタ自動車のモノづくりがどのように変わっていったのかについて、初代クラウンである「トヨペット・クラウンRS型乗用車」の開発と生産に向けた取り組みを軸に見ていく。
⇒連載「トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革」バックナンバー
1945年(昭和20年)年9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が月間1500台のトラック生産を許可したことで、戦後の日本の自動車生産が始まった。その後、1947年6月、排気量1.5l(リットル)以下の小型乗用車の製造が年産300台で許可された。そして、1949年10月には乗用車の生産制限が解除され、自動車の生産は自由競争時代に入った。
後述するが、日本の自動車産業にとって戦後復興の契機となったのは1950年の朝鮮戦争による45億ドルに及ぶ特需景気(1950〜55年)だった。このとき国内自動車メーカーが受注した特需車両は総計1万台を超え、その他にも工ンジン単体、部品生産、米軍車両の再生/修理などを請け負った。ここで蓄積した技術を基にして、国内自動車メーカーは小型四輪車や三輪トラックなどの商用車を中心に自動車生産に本格的に取り組み始める。
しかし、当時の日本の自動車産業は欧米に比べるとクルマづくりの技術水準が低く、特に国産乗用車はその性能、価格の点で劣っていた。
表1に、1950〜55年におけるトヨタの自動車事業の挑戦――新車発表と生産販売実績および事業展開、工場/施設展開――を示す。1950〜55年のトヨタは、生産性の向上と資材の有効利用から設備の近代化と生産技術の基礎固めを推進する。
ここからはこの表1に沿って各年におけるトヨタの状況を見ていく。
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)による朝鮮戦争が勃発。同年7月10日、米国第8軍調達部からトラックの引き合いがあり、トヨタ自動車工業(トヨタ自工)はBM型トラック1000台を受注し、7月31日にトヨタ自工とトヨタ自動車販売(トヨタ自販)の共同で契約を締結した。納入は、翌8月に200台、9、10月に各400台。その後もトヨタは、8月29日に2329台、翌1951年3月1日に1350台と合計4679台のBM型トラックを受注した。受注金額は36億600万円に上る。
このような特需に対してトヨタ自工は、生産計画を月産650台から1000台へと引き上げた。トヨタ自工の業績は、朝鮮戦争特需により急速に回復した。
朝鮮戦争特需は、トヨタ自動車のみならず日本経済の復興を大きく進展させた。上記のような軍需だけでなく、タクシー用乗用車といった民間の需要が増大し、外国製乗用車の輸入自由化に対する要望が強まった。国内自動車メーカーに対する乗用車の生産制限はGHQによって1949年10月に解除されており、こうした需要に対応して、乗用車の本格的な開発が日本国内メーカーで急速に拡大しつつあった。
1950年4月7日、トヨタ自工では人員整理を巡る労働争議が勃発する。同年6月10日、2カ月に及ぶ労働争議が終結し、蒲田工場、芝浦工場を閉鎖。会社側から新職制が発表され、新労働協約や給与制度改定の労使交渉など、再建策の取り組みが始まった。
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