昭和初期のトヨタはどのようなクルマづくりを行っていたのかトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(1)(1/5 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第1回は、昭和初期に当たる1930年代から1940年代にかけてトヨタのクルマづくりがどのように進んでいったのかを見ていく。

» 2024年10月03日 07時00分 公開

1.はじめに

 いまや、安否確認のために小学生も持つようになったスマートフォンによって、世界中のあらゆる情報が簡単にしかも瞬時に収集できるようになった。本連載では、そのような非常に便利な端末がもちろん存在しなかった1930年代に始まり、1940年代、1950年代……といった感じで、約10年ごとの各時代の世界情勢や日本経済、自動車業界の状況を踏まえながら、トヨタ自動車(以下、トヨタ)を中心に、その他の自動車メーカーの動向といったクルマづくりに関する事項(例えば、その時代を象徴するヒット商品やその生産形態、そして情報システムなど)に触れながら、トヨタにおけるクルマづくりの流れや変革の様子を見ていきたい。

⇒連載「トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革」バックナンバー

 今回は、昭和初期に当たる1930年代から1940年代のトヨタのモノづくりがどのように進んでいったのかを見ていく。特に注目したいのはトヨタのクルマづくりにおける裏方の様子である。

 トヨタというブランド名が確立されたのは、次回以降に紹介する予定の1950年代、特に1955年に発表された初代クラウンから始まると考えられる。しかし、その初代クラウンを生み出す上で、それ以前からの豊田喜一郎※注)の思いと日本の自動車市場が背景にあり、例えばクルマづくりのための基本的な構想や工場、設備、関連技術が必要になる。だからこそ、連載第1回の本稿では、1930年代から戦前戦中戦後の1940年代におけるトヨタのクルマづくりの裏方を振り返っていく。

※注)本連載では全ての人名の敬称を略して表記します。ご了承ください

2.豊田喜一郎の思いと日本の自動車市場

 トヨタの自動車開発を進めた主役は、豊田喜一郎である。喜一郎は、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)を創業した豊田佐吉の長男である。図1に示すように、佐吉はトヨタのモノづくりの原点の一つである「自働化」を、喜一郎はもう一つの原点となる「ジャスト・イン・タイム」を提唱し、後年に大野耐一がそれらを「トヨタ生産方式」にまとめた。

図1 図1 トヨタのモノづくりの原点を作った豊田佐吉と喜一郎、大野耐一[クリックで拡大] 出所:トヨタ自動車

 喜一郎は、1923年(大正12年)9月1日に東京で関東大震災に遭遇した。この時、鉄道は壊滅的な被害を受け、輸送手段から人命救出まで自動車が大活躍したのを目の当たりにした。

 このとき東京市電気局は、路面電車が復旧するまでの代替の移動手段として、米国のフォードにトラックシャシー800台を発注して幌張りの粗末なボディーを架装した市バスの運行を開始した。この震災後の自動車需要の急増に対応したのは、大量生産体制により供給力と低価格の両面で優位に立つ米国の自動車ボディーであり、しかも価格が欧州車と比べて2〜3割も安く、注文から3カ月で到着したため米国への発注が圧倒的に多くなり、到着までに6カ月もかかる欧州車は市場から後退していくことになる。日本での自動車需要の急増を受けて、フォードは1924年(大正13年)12月に日本フォード(本社:横浜、資本金400万円)を設立し、翌1925年(大正14年)3月から組立生産を開始した。また、ゼネラルモーターズ(GM)も日本GM(本社:大阪、資本金800万円)を設立し、1927年(昭和2年)4月から組立生産を開始している。

 1916年(大正5年)には日本発の自動車生産に向けた動きも始まった。東京石川島造船所と東京瓦斯電気工業が自動車の製造を計画し、1922年(大正11年)には英国ウーズレーとの提携に基づくウーズレーA9型の国産第1号乗用車を完成させた。この国産第1号乗用車を端緒に、1933年(昭和8年)に完成した「商工省標準形式自動車」は、1934年(昭和9年)に「いすゞ」と命名されており、これが1949年以降におけるいすゞ自動車の社名の由来となっている。

 東京石川島造船所の自動車部門が独立した石川島自動車製造所とダット自動車製造が合併して1933年に設立されたのが自動車工業である。この自動車工業と、国産第1号乗用車のルーツにあった東京瓦斯電気工業は協同国産自動車を設立し、さらに東京瓦斯電気工業の自動車部と自動車工業、協同国産自動車が合併して1937年(昭和12年)に東京自動車工業が発足した。

 一方、日産自動車の創業者である鮎川義介は1933年に戸畑鋳物から自動車部を独立せしめ、日本産業と戸畑鋳物の共同出資による自動車製造を設立。1934年(昭和9年)に自動車製造は日本産業の100%出資となり、社名も日産自動車に変更している。

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