昭和初期のトヨタはどのようなクルマづくりを行っていたのかトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(1)(2/5 ページ)

» 2024年10月03日 07時00分 公開

3.トヨタの自動車事業への挑戦

 豊田喜一郎は、1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)4月にかけて欧米に出張し、これからの将来、自動車産業が大きく発展することを確信する。

 そして、1933年(昭和8年)9月1日、豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設置し、自動車の試作に着手した。そこで喜一郎は、乗用車について、先端的な流線型スタイルのクライスラー系デソート※1)・エアフローのボディーとシャシーを参考に試作車の基本構想を検討。具体的には、1933年型シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ(採寸、図面化)し、自動車を構成する部品を理解しながら、エンジン試作用図面を作成し、1934年型乗用車のデソート・エアフローとGM系シボレー・マスター・セダンを購入して、それらを参考に設計を行った。分解した自動車部品は、材質や強度、硬度などを調査するだけでなく、国内の外国車用イミテーションパーツ製造業者や、材料の供給業者なども調べた。また、今後のトヨタの発展に欠かせない人財として、菅隆俊、池永羆、神谷正太郎、倉田四三郎などの専門家を採用し、試作工場と製鋼所を建設した。

※1)デソート(DeSotoもしくはDe Soto)は、米国のクライスラーが北米で展開した自動車ブランド。1928年8月4日、クライスラーの創業者ウォルター・クライスラー(Walter Percy Chrysler、1875〜1940年)が廉価版志向のプリムス(Plymouth)と対になる上級志向の販売部門を設立した。スペインの探検家「エルナンド・デ・ソト」にちなみ命名。1929年にダッジ・ブラザース(Dodge Brothers)を買収し、クライスラーは一時はフォードを抜きGMに次ぐ米国第2位となるも、自社内の高級者ブランドの乱立で販路が混迷し、1961年にデソートブランドは終焉(しゅうえん)する。

 当時革新的であったクライスラー・エアフローのエクステリアデザインを手掛けたのは、クライスラー設立時の18人のオリジナルメンバーの1人でチーフデザイナーを任されていたオリバー・クラーク(Oliver Clark)。そのエアフローは外観だけではなく機構的にも先進的で、頑丈なモノコックボディーを採用し、フロントアクスルの上にエンジンを置き、室内スペースを広くするためリアシートの位置をリアアクスルの前にして低く配置し、重量配分を良くした。ちなみに、当時の旧七帝大卒社員の月収50円、丁稚奉公10円という時代に、デソート・エアフローの価格は1万1850円だった。

図2 図2 A型エンジン。1934年9月25日に完成した[クリックで拡大] 出所:トヨタ自動車

 1934年3月には、板金・組立工場、機械・仕上工場、倉庫、材料試験・研究室で構成される自動車部の試作工場が完成する。ドイツ製や米国製の工作機械が据え付けられ、同年7月には稼働を開始。製鋼部の製鋼所建屋が完成し、11月までに溶解用電気炉、圧延機が据え付けられてこちらの操業も開始した。8月には、シボレー・マスター・セダンのエンジン直列6気筒OHVユニットをまねたシリンダ・ブロック鋳物が完成。シボレー・エンジンの出力60馬力に対し、48〜49馬力しか出ず、シリンダーヘッドを改良設計して、65馬力を実現。これが図2に示すA型エンジンである。

 また1934年には「自動車工業確立ニ関スル各省協議会」が設立された。第1回会合が同年8月10日に開催され、その結果、豊田自動織機製作所と日産自動車が当初の許可会社に指定された。1936年5月29日には「自動車製造事業法」が公布され、同年7月11日に施行。豊田自動織機製作所は、9月19日に商工省から許可会社の指定を受けた。

 国家総動員法が成立した1938年以降は国産部品の使用が義務化されるとともに、自動車製造事業法の施行で日本フォードと日本GMの組立生産は生産台数が制限され、部品の輸入関税も急激に上昇し、厳しい状況に置かれた。例えば、エンジンの税率は従来の35%から60%に引き上げられた。このため日本フォードは、豊田自動織機製作所の自動車製作部門から設立されたトヨタ自動車工業や日産自動車との提携を模索し、1938〜39年に提携交渉を進めたが、合意には至らず。結局、日本フォードと日本GMは、1939年に生産を停止している。

 1936年の自動車製造事業法の許可会社に指定されたことを受けて、1937年に喜一郎はトヨタ自動車工業(トヨタ自工)を設立し、同年に同社の副社長、1941年には社長に就任する。

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