トヨタの源流となる自動織機はどのような技術の変遷を経て生まれたのかトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(4)(1/5 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第4回からは、トヨタ自動車創業以前に時代を巻き戻し、豊田佐吉の生涯と、その時代背景となる日本の政治や経済の状況を見ていく。まずは、豊田佐吉が発明したことで知られる自動織機のことを理解するために、織機技術の変遷を概観する。

» 2025年01月28日 07時00分 公開

1.はじめに

 本連載第1回では、トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革について主に1930〜1940年頃の状況を述べた。第2回は1950〜1955年、第3回は1956〜1957年のトヨタ自動車モノづくりの流れ、特に、トヨタのクルマづくりの裏方の生産技術関係の変革の様子について解説した。

 今回からは、トヨタ自動車創業以前に時代を巻き戻し、豊田佐吉(敬称略)と、その時代背景となる1886〜1930年ごろの日本の政治や経済の状況を見ていく。まずは、豊田佐吉が発明したことで知られる自動織機のことを理解するために、織機※1)技術の変遷を概観したい。

※1)織機(しょっき、loom、wearing machine、wearing machine)とは、布を織る機械。経(たて)糸に緯(よこ)糸を織りこんで織物を織る機械。機(はた)。機織機(はたおりき)。おりき。織物を作る機械の総称。原理は本文の図2を参照のこと。

 (1)水平方向に並べられた多数の経糸を交互に、あるいは適当な順序で上と下とに移動させて分け、(2)その上下間に別の緯糸を直角方向に通し、(3)この緯を前に挿入した緯糸と所定の間隔で並ぶように前進させる。(1)を開口、(2)を緯入れ、(3)を緯打ちといい、この一連の運動を繰り返すことで、織物を作る。これらの操作を手足で行う織機を手織機(ておりき)または手機(てばた)といい、動力で運転するものを力(りき)織機という。

 織物の歴史は人類の歴史とともに古く、初めは樹皮などをむしろ状に編んで使用したと考えられるが、これを能率良く行うため、やがて織機が考案された。原始人が使用していた織機には竪機(たてばた、立形織機)と水平機(水平形織機)の2種類があり、いずれも道具(器具)に当たり、英語のloom(織機)も、その語源はlomaで、tool(道具)という意味。竪機には、体操の鉄棒のようなものを木で作り、これに経糸を垂らして下方を小束(こたば)にし、それに重りをつけたものと、下のほうにも棒を渡して上下の棒の間に経糸を張ったものとがある。いずれも経糸と直角に緯糸を挿入して織物を作るが、前者では上から、後者では下から織っていく。水平機は四隅に杭を打ち、これに固定した水平な2本の棒の間に経糸を張ったもので、この方が長い織物を作りやすい(経糸を巻いておく技術はなかった。古代エジプトの墳墓から発見された絵画資料などから推定して、水平機が先行し新王国時代になって竪機が出現したと考えられる。この種の竪機はタペストリー用の織機として、現在もペルシャ絨毯などに使用されている。また織機にはその地方の特色があり、体の幅程度の狭い織物を作った東南アジア、汎太平洋沿岸地域などでは、水平機の手前の棒を杭からはなし、これに腰当てを結び付けて体に着け、座って操作した。

 織機の歴史は、中国では紀元前3000年頃にさかのぼり、前漢時代(紀元前202年〜西暦24年)の絹の綾織が発見されている。高機(たかばた)は地機(じばた)の機台を高くし、布巻具もこれに取り付け、機台につるした複数の綜絖(そうこう)を、踏木を踏んで開口する(本文図2)。大杼(おおび)を小さくした舟形の小杼(こび)が用いられ、腰掛けて操作する。また、枠につけた綜絖以外に、複数の人が機台に登って経糸を上下させ、複雑な紋様を作る空引(そらひき)装置を備えた空引機(ばた)も使用されたと思われる。当時の中国は最も進んだ絹の織布技術をもち、5〜6世紀になると高機、空引機は日本にも伝わり、朝廷に隷属する人たちによって絹織物が作られた。当時、日本では、高機は棚機(たなばた)とも呼ばれ人々の関心を集めた。地方では、特色のある地機が江戸時代まで広く使用された(主に麻、後に絹、綿にも使用)。その後、16〜17世紀(桃山、江戸時代)に再度中国の進んだ技術が取り入れられ、西陣のほか地方にも高機は普及したが、大きな変化はなかった。17世紀前半には、農家の主婦は地機でくず繭から作った紬(つむぎ)を着ることは許されたが、空引機などで作った高級絹織物は庶民には縁のないものであった。

⇒連載「トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革」バックナンバー

2.織機技術の変遷

 豊田佐吉が生まれる100年ほど前の18世紀半ば、世界の織機技術には大きな変化があった。具体的には、手織機※2)からカ織機※3)への移行である。

 織機の動力は、人間、水力、蒸気機関※4)から、ディーゼルエンジン、電気モーターへと進化していく。後述するように従来の手織機に代わって、水力、蒸気機関を動力とするようになる。この蒸気機関が織機の動力の主役となり、英国をはじめとする産業革命を主導し、織物生産が飛躍的に発展する。

※2)手織機(ておりばた)とは、人の手足で操作する織機。地機(じばた)、高機(たかばた)など。手機(てばた)。

※3)力織機(Power loom)とは、蒸気機関などを動力としてその動力で動く織機、機械動力式の織機。動力織機。手織機に対する用語。従来の人力には手織機(手機:てばた)、足踏(あしぶみ)織機などがある。主運動といわれる経糸の開口、緯糸の挿入および緯打ちの機構原理は変わらないが、力織機ではクランク軸の回転により、主運動、副運動などの全ての運動が伝達作動する方式である。クランク軸の回転から導かれる全ての運動は、開口、杼投(ひなげ)、筬打(おさうち)の主運動、巻き取り、送り出しの副運動、その他の補助運動から構成される。

※4)蒸気機関(steam engine)とは、蒸気のエネルギーを機械的仕事に変換する蒸気原動機の一形式で、蒸気圧力をシリンダー内のピストンに作用させて仕事を取り出す。主要部はシリンダー、ピストン、その往復運動を回転運動に変えるクランク機構およびシリンダーへの蒸気の供給/排出をつかさどる弁機構から成る。

 ボイラーからの高圧蒸気は蒸気弁と調速機の絞り弁を経て蒸気室に入り、蒸気分配を行うすべり弁によってシリンダー内に導かれて膨張し、ピストンを押す。圧力の下がった蒸気は再びすべり弁、排気室を通り排気管を経て、大気中または復水器中に排出される。

 17世紀末〜18世紀初頭に鉱山の揚水機として、1699年に英国のトーマス・セーバリー、フランスのパパンなどにより構想された蒸気ポンプ機関を基に、1712年に英国のトーマス・ニューコメンが初めて蒸気を使用してピストンを動かし、それによってシリンダーとピストンから成る排水ポンプを動かす大気圧機関を発明した。

 1765年、ジェームズ・ワットはこれに復水器をつけ数次の発明/改良を加え、蒸気圧力でピストンを押す蒸気機関を発明し、さらに回転運動への変換機構、ワットの調速機などの発明によって完全に実用化した。この機関は構造が簡単で取り扱いも容易であったため、最初の熱機関として急速に普及/発達し、産業革命の推進力となり、以後長く工業、鉱山、船、鉄道(蒸気機関車)、自動車(蒸気自動車)などの原動機として使用され、近代産業に著しく貢献した。

 1769年、フランスのニコラス・ジョゼフ・キュニョーは高圧機関を使って砲車を引く蒸気自動車を開発。1802年に、リチャード・トレビシックが10.5気圧の蒸気を使用する小型のボイラーとシリンダーが一体の蒸気機関を開発。同年ワットの後継者である英国のウィリアム・マードックは、ワット型の弁の一部をはずみ車につけた偏心輪で動かす滑り弁と蒸気給排気孔の組み合わせに替えた小型の複動機関を開発。これは以後の蒸気機関の基本形で、さらに改良されて蒸気機関の最後まで使われた。

 1815年、米国のオリバー・エバンズが14気圧の蒸気を使用する機関を開発。1804年、英国のアーサー・ウルフは、初めて高圧蒸気で1つのシリンダーのピストンを動かし、その排気で次のシリンダーは低圧でピストンを動かす複式機関を開発。その後、1840年に英国のロバート・スティーブンソンは、クランク軸に正逆回転用の2つの偏心輪をもち、停止からどちらへも機関を回転させられるリンクを開発。1841年には、方向だけでなくピストンに送る蒸気量も調節できるように改良され、蒸気機関車、工場、発電所、船などで使用された。蒸気機関の主流は、滑り弁で蒸気の流れを調節する横型の高圧複動複式機関で、最後の膨張はワット型と同じように真空まで行われる。

 横型機関が大型、高速化するに伴い、開閉に時間がかかる滑り弁ではなく、偏心輪にかわってカム軸で動かされるドロップ弁が1841年に、首振り軸型のコーリス弁が1849年に開発された。これらの弁は開閉が速く、ピストンの動きのほぼ端から端まで蒸気の圧力を有効に利用できる。また従来の形式の機関では、同じ場所でシリンダーに蒸気を出し入れするために、シリンダーや弁が交互に加熱/冷却され、蒸気の熱エネルギーが無駄になる。1885年、この損失をなくすために、蒸気をシリンダーの端から入れ、シリンダー中央から排気するユニフロー形式の機関が発明され、1908年には給気弁にドロップ弁を使って実用化された。1850年頃には、ピストンとシリンダーが上、クランクが下にある新しい形式の縦型がつくられ、ポンプ場や敷地の狭い発電所などで使用された。

 1760年代に始まる英国の産業革命が起こると、織物産業は大きな影響を受けた。多くの手仕事が機械により代替され、生産力が劇的に上がることになる。特に織物産業は、機械化の波により、従来の問屋制家内工業や分業に基づく協業のマニュファクチュア(工場制手工業)の生産方法から工場制機械工業に一新される。この英国の産業革命による織物生産の生産効率の飛躍とその変化は、日本にも多大な影響を与える。

 織機の機械化は織物生産にさまざまな技術革新をもたらした。かつては人手による仕事であり、時間も労力もかかった糸紡ぎや布織りが、機械の導入により大幅に効率化する。後述するジェニー紡績機やカ織機(パワールーム)などの導入によって、1人の工員が管理できる糸の量は飛躍的に増加し、織物の生産量と速度が劇的に向上した。これにより、織物はかつてないほどに廉価かつ大量に消費者に提供され、英国の帝国主義による世界の植民地化政策を発展させる。

 ここからは、世界のさまざまな技術革新によって生まれた代表的な織機技術の幾つかを見ていこう。

(1)シャトル

 1733年(享保18年)、ジョン・ケイ※5)図1に示すような飛び杼(ひ)(シャトル※6))を発明する。力織機発明の端緒を作った。手で杼を動かす必要がなくなり、織機が高速化される。これは行程の一つの改善にすぎないが、綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使って糸を作る紡績では綿糸生産能力が需要に追い付かなくなった。

図1 図1 シャトル[クリックで拡大]

(a)シャトルと木簡とが別々 (b)木管とシャトルとが一体

 日本では、図2に示すようにバッタン高機(たかばた)に使用され、ひもを引くことにより杼箱の中からシャトルを弾き出すもので、緯(よこ)入れ、緯打ちの能率は飛躍的に増大した(日本ではこの装置をバッタン※7)と呼ぶ)。

図2 図2 機織の原理とバッタン高機[クリックで拡大]

※5)ジョン・ケイ(John Kay、1704〜1779年)は、英国ランカシャーのベリーの北部ウォルマーズリーで生まれた発明家。1733年、飛び杼装置(flying shuttle)を発明。その発明は産業革命に大いに貢献した。これにより経糸の間に緯糸を素早く通すことが可能となって織りにかかる時間が大幅に短縮され、同時により幅の広い織物を織れるようになった。そのため、従来幅広の織機では杼をキャッチする助手が必要だったが、織り手1人で幅広の織機を扱えるようになった。

※6)シャトル(shuttle)とは、織機の飛び杼のこと。シャトルの中には緯糸が巻かれた木管が入っており、シャトルの横には、緯糸が引き出される穴がある。シャトルから最初に引き出される糸端は固定し、(1)経糸の間を反対側へ通す。これで経糸の間に緯糸が一本通される。緯入れが終わると(2)緯糸を布側に押し付ける筬打を行う。(3)経糸の上下を入れ替え、先ほどと同じようにシャトルを通して緯入れを行い、これを繰り返すと布ができる。1733年にジョン・ケイが、織機の一部分であるシャトルを改良した飛び杼を発明した。

※7)バッタン(batten)は、1733年、英国のジョン・ケイが発明した飛び杼のことで、揺動できる木枠に固定した筬(おさ)の左右両端に杼箱を付け、この中に入れたシャトル(杼)のひもを引いて弾き飛ばすと、杼は経糸の杼口を通って他端の箱に入る装置である。語源は「打つ」という意味のフランス語のbattantで、英国などでは筬を固定した枠を機台に掛け、これを揺動させて緯打ちを行う装置のことを指す。日本には1873年(明治6年)頃に、オーストリアやフランスなどからジャカードとともに導入された。1875年、長谷川政七がこれを模造し、ハジキ框(かまち)と称した。このころからバッタンは高機に取り付けられ綜絖も弓棚式からろくろ式に変化、両手を使って杼を投げ入れていた従来の高機に比べ、広幅の布を能率よく均一に織ることができるようになった。

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