トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第3回は、量産規模が急激に拡大していく中で、1956〜1957年のトヨタにおけるクルマづくりがどのように変わっていったのか、クルマづくりの裏方である生産技術の変革がどのように進んでいったのかを見て行く。
トヨタ自動車(以下、トヨタ)におけるクルマづくりの変革をテーマとする本連載では、連載第1回として、主に1930〜1940年ごろの状況を述べた。第2回は、1950〜1955年におけるトヨタのモノづくりの流れとして、同社のクルマづくりとして初代クラウンの開発を支えた裏方の取り組みを中心に紹介した。
連載第3回の今回は、量産規模が急激に拡大していく中で、1956(昭和31年)〜1957年(昭和32年)のトヨタにおけるクルマづくりがどのように変わっていったのか、クルマづくりの裏方である生産技術の変革がどのように進んでいったのかを見て行く。
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表1は、1956〜1957年にトヨタが自動車事業で繰り広げた挑戦について、新型エンジン/新車発表、生産販売実績、事業展開、工場/施設展開を示している。ここからは表1に沿って、1956〜1957年におけるトヨタのクルマづくりの詳細を見て行く。
日本は経済復興の手段の一つとして1952年8月に世界銀行に加盟した。トヨタも挙母工場拡張のため1956年2月21日、世界銀行から235万米ドルの借款契約を行った。
1956年3月、豊田自動織機製作所製のフォークリフト(LA型)が発売された。連載第2回で述べたが、トヨタのみならず協力会社などのサプライヤーなどにも普及し、各会社の運搬管理体制の確立や運搬能率の向上といった、運搬の合理化が推進された。
1956年2月以降、トヨタの生産台数は逐月増加し、同年2〜3月に2000台、4〜6月に3000台、7〜9月に4000台、10〜12月には5000台と、四半期ごとに月産台数が1000台ずつ上積みされていく状態だった。旺盛な需要に対応して、早くも計画能力を大幅に上回る生産実績を達成した。
連載第1回でも述べたが、1951(昭和26)年に始まった「設備近代化5カ年計画」では、現有設備の更新と合理化、本格的乗用車クラウンのR型エンジンや生産設備新設を重点として、総額46億円の投資を実施した。14億円の輸入機械をはじめ、自動化された機械設備が多数導入されたことで、本社工場は目標の月産能力3000台の生産設備が整い、1956年10月には5074台と早くも5000台を超える実績を上げた。
表2に、トヨタ自工における1951年と1956年の生産実績の比較を示す。生産台数全体で3.26倍に拡大しており、特に小型乗用車と小型トラックの伸びが著しい。これに対して、大型トラックは横ばいで、その生産台数比率は63%から20%と大幅に縮小した。これは、小型自動車の大変な普及を示すもので、すなわち、日本における自動車需要の急速な拡大と構造の変化である。これに対応して、トヨタの販売体制と生産体制を見直す必要が出てきていたということだ。
小型乗用車の 台数と構成比 |
大型トラックの 台数と構成比 |
小型トラックの 台数と構成比 |
合計台数 | ||||
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1951年 | 1470台 | 10.3% | 8989台 | 63.2% | 3769台 | 26.5% | 1万4228台 |
1956年 | 1万2001台 | 25.9% | 9127台 | 19.7% | 2万5289台 | 54.5% | 4万6417台 |
増加倍率 | 8.16倍 | 1.02倍 | 6.71倍 | 3.26倍 | |||
表2 トヨタ自工の1951年と1956年の生産実績の比較 出所:トヨタ自動車 |
このように、1951年に対して1956年は、自動車市場における小型車の需要増加が急激に進展しており、自動車販売の関連でも1956年1月に開催されたトヨタ自動車販売店協会で、トヨタ自販 社長の神谷正太郎氏が、従来の販売体制から複数販売店制の導入をはじめとする次のような構想を発表した。
1956年春に第1次新設店のうち7社が発足した。第1号として、同年3月20日に地元愛知県の名豊自動車(愛知トヨタ内)が設立された。4月1日に横浜トヨペット、仙台トヨペット、三重トヨペットの3社、4月2日に埼玉トヨペット、4月10日には岐阜県の丸豊自動車と兵庫県のカネキ商店が続く。
そして、トヨタ自工では、トヨペット店の設置に備え、トヨペット・ライト・トラックSKB型の大増産計画を立てた。ボディーを生産するトヨタ車体でも、1955年暮れに生産設備の増強を実施。1956年1月には販売価格を大幅に引き下げ、これを機にSKB型トラックの需要は急増した。
先述したが、トラックも大型から小型への需要の変化があり、それに対応して、1953年10月にトヨペットRK型トラックがR型OHV1453cc48馬力エンジンを搭載して1250kg積みとなった後、1955年3月には1.5t(トン)積みになった。そして1956年4月、独立フロントフェンダーと1枚フロントガラスを持つ同積載量のトヨペット・トラック(RK23型)※1)が発売され、トラックのスタイルが近代的、革新的に変化した(図1)。そのために基本構造、例えば、座席の高さなどの改善が行われ、1957年に55ps、1958年「スタウト」の愛称で58ps、1959年に60psにパワーアップしている。
※1)1956年トヨペット・トラック(RK23型)の仕様は以下の通り。全長4290×全幅1675×全高1700mm。ホイールベース2530mm。車重1360kg。FR/R型直列4気筒OHV1453cc、最大出力48ps/4000rpm、最大トルク10.0kgm/2400rpm。変速機フロア3速MT。乗車定員2人。最大積載量1500kg。タイヤ前:7.00-15-6p/タイヤ後:7.00-15-10p。シャシー刻印開始番号:6-RK-40001。最高速度時速85km。販売価格68万円。
1956年5月に中距離用の新型トラックで「ダイナ」の前身であるトヨペット ルートトラック(RK52型)を発売、全長は「RK23型」と同じながら、座席をより前により高くし、その分荷台を625mm長くして荷台面積を拡大し、最大積載量1.5tの小型トラックを進化させた。
1956年7月18日、一般公募により、トヨペット・ライト・トラックSKB型の愛称を「トヨエース」に決定した。同車の開発に当たっては、シャシー販売方式を止め、トラック完成車として販売すること、またS型エンジン搭載車の需要増大を図ることで、低廉、簡素、実用本位の軽いトラックの実現を目的とした。そのため、生産分担に従って、トヨタ自工がシャシーを、豊田自動織機製作所がエンジンを、トヨタ車体がボディーを担当し、各社の技術陣を動員した。その結果、極めて短い期間で新型車が完成した。1954年9月にトヨペット・ライト・トラックSKB型として発売。SKB型は従来モデルのSK型と比べ、キャブオーバー式で全長やシャシーの大きさはほぼ同じだが、荷台を従来比で29%増となる568mm拡張し、2525mmとしたことが特徴だ。
トヨタ自販の業務であるボディー製作はトヨタ車体で行うが、トヨタ自工が生産工程を管理する。一方、完成車販売方式に組み込まれたボディーメーカーは、トヨタ自工の分工場的な位置付けとなり、製造技術や品質管理、生産管理などの管理技術なども、トヨタ自工と同水準が求められた。トヨタ自工は、この完成車販売方式で、車両の販売価格設定と品質保証に責任を持つことになった。
1956年1月1日、トヨタはトヨペット・ライト・トラックSKB型の価格を56万円に値下げし、同クラス三輪車との価格差を12万5000円(29%)に縮小した。さらに、同年5月17日に53万8000円へと値下げすると、翌6月の生産台数は1052台に急増した。
また、表2に示したような1956年の急激な小型自動車需要を背景に、将来のさらなる需要増に備えるべく、6月に月産1万台を目標とする生産設備増強計画を策定した。
この計画は1958年10月までの約2年半を対象とし、生産/製造技術の中でも重要な鋳造工程として「鍛造工程」「機械加工・組付工程」「プレス工程」における機械設備の専用化/自動化、工程の連続化/ライン化などに狙いを置いた。
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