関東大震災を機に自動車に着目した佐吉と喜一郎、力を合わせ自動織機も完成形へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(11)(3/6 ページ)

» 2026年04月07日 08時00分 公開

4.豊田自動織機製作所へつながる刈谷試験工場の設立

 1923年(大正12年)、2月東京丸の内ビルヂング完成。9月関東大震災※6)。「船頭小唄」の流行。9月3日亀戸事件。9月16日甘粕事件。9月梁瀬自動車※7)、米国からビュイック、シボレー2000台緊急輸入。10月東京市、約800台のT型フォード(トラック・シャシー)を輸入、東京市営バスとして架装。11月「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布される。12月、虎の門事件。

※6)関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって、南関東とその隣接地で明治以降の最大規模の被害をもたらした地震災害。死者、行方不明者は推定10万5000人。東京市電が全滅し、その代わりに、東京市がT型フォードを約800台輸入して円太郎バス事業を開始。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客や物流におけるモータリゼーションが始まる。

※7)梁瀬自動車株式会社は、1920年(大正9年)1月27日に梁瀬長太郎が設立。1915年(大正4年)5月25日、東京・日比谷に設立した梁瀬商会を前身とする。1919年(大正8年)、現本社のある東京府芝浦に工場を開設。ゼネラルモーターズ(GM)のビュイック、キャデラックの輸入から始まり、イタリアのフィアットや電気自動車のミルバーンなどの輸入やバス、タクシー会社経営、車体製造など幅広い分野に手を広げた。1924年(大正13年)5月18日、東京・日本橋に自動車ショールームを開設。

 表2は、1923年(大正12年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は2件。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2の番号)
50941 佐吉(本人) 大正12.1.12 大正12.7.16 2.自動杼替用ウェフトフィーラ式よこ糸探り装置
60283 佐吉(本人) 大正12.5.18 大正13.3.29 14.シャットル緯糸引通装置
表2 1923年(大正12年)に豊田佐吉が出願した特許

 表1と表2から分かるように、佐吉は既に自動織機の開発に深く取り組んでいる。その自動織機の実用化と改良を目的に刈谷に実験工場を設立し、自動杼換装置の改良を進めた。1922〜1929年には、自動杼換機構に関する特許が急増していく。この頃の佐吉は、単なる発明家ではなく、製造現場の品質管理や人材育成にも力を入れていた。

 さて、豊田佐吉が自働織布工場を始めた1912年(大正元年)ごろの試験用自動織機は8台、そして、上海と名古屋を往復していた1920年(大正9年)ごろは、1000台以上の普通織機の中で自動織機は32台だった。このように少数の自動織機を置いたことにより、自動織機特有の管理や取り扱い方法や工員の指導訓練、のり付けなどの織布準備作業の適否などが自動織機の性能に大きく影響することが判明したが、対策できない不都合もあった。

 そこで、営業試験工場の建設の必要性を痛感し、豊田佐吉は1923年(大正12年)、愛知県碧海郡刈谷町の豊田紡織に、自動織機を研究/試運転するための刈谷試験工場、すなわち豊田自動織機試験工場を設立することを決心した。

 前回の連載第10回で紹介した武藤山治の項目でも言及したように、営業試験をするためにはより良質な糸が必要となる。そのため、原糸そのものの生産、つまり紡績工程自体をも十分に管理することが必要になり、紡績工場の建設が必須となった。

 自動織機についてはその製造を急きょ豊田式織機に依頼した。当時、佐吉は織機製作の事業を行っておらず、自分の手元では自動織機の自動装置のみを製作し、織機本体は全て豊田式織機に依存していた。

 喜一郎は、最初は佐吉が開発した自動織機と同じものを製作し、これに改良を加えていた。その結果、1923年(大正12年)7月には自動織機の発明によって諸特許を獲得して次々に改良を加え、十数年前に豊田佐吉が洋行した当時に発明された自動織機から全面的に一新された完璧に近い自動織機となっていた。

 繰り返すが、上述したように、30台ほどの自動織機を完全に動くようにしたものの、豊田佐吉は、「自動織機の理想的なる一大試験工場を創設せん」ことを決意し、愛知県碧海郡刈谷町に、約10万坪の土地を女婿の利三郎に買収してもらい、1923年(大正12年)11月に織機500余台を設備し得る理想的な営業試験のための刈谷試験工場を新築した。そして、まず200台を据付け、本社から技術方面では鈴木利蔵を主任にして、翌年の1924年(大正13年)春から刈谷試験工場で200台による大規模試験運転を開始し、そして多くの課題を見いだし、早期の課題把握につなげた。

 この刈谷試験工場は、豊田佐吉が「真価を世に問うためには完全なる営業的試験を行わなければならない」という信念の下、「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」を本格的に市場投入する前に、実際の生産環境での性能や耐久性を徹底的に検証するために設立された。この試験工場での成功が、1926年(大正15年)の豊田自動織機製作所の設立へとつながり、日本の産業史における重要な一歩となった。現在、この地にはトヨタ紡織のグローバル本社/刈谷工場がある。

 このように、豊田佐吉を中心とする株式保有の下、次弟の平吉と末弟の佐助、佐吉の嗣子(しし)喜一郎、女婿の利三郎などが、自動紡織の事業に従事して成功した。また、佐吉の事業は、豊田紡織、菊井紡績によって拡大した。

5.関東大震災を契機に日本国内で拡大した自動車市場

 さて、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大地震の被害影響により、庶民の足として自動車が急きょ導入された。図2に示す円太郎バス※8)と、物流に大活躍をするT型フォードのトラックを目の当たりにした佐吉は、連載第9回で述べたように1910年(明治43年)に渡米した時の、米国の自動車産業の発展、特にT型フォードが庶民の足として大活躍していることに驚いた思いが重なり、「次世代の事業は自動車である」と確信した。

図2 図2 関東大地震後に大活躍する円太郎バス[クリックで拡大] 出所:初心者のためのオートオークションの基礎知識

※8)円太郎バスは、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に伴う路面電車網(東京市電)被災後の市内輸送補充策として東京市がT型フォードのトラックモデルであるフォード・モデルTT(20HPエンジン付き)を800台発注し、そのシャシーを使用して、車台と客室の部材を緊急輸入し、日本総代理店のセール・フレーザー横浜工場で11人乗りに改造したバス。車内にはベンチしかなく、側面や後部の窓ガラスがないため、雨の日には幌を張ってしのいでいた。乗り心地が悪いこと、事故も多く、一時期乗客離れも起こったが、客室にスプリングを入れるなど改良を施し、女性車掌を配置するなど、乗り合い自動車の「実証実験的」な役割を担った。

 そして今ここで、本連載第1回で述べた時代と同期する。以下、重複するが、喜一郎は、1923年(大正12年)9月1日に東京で関東大震災に遭遇した。この時、東京や横浜の市電、省電、郊外電車、鉄道は壊滅的な被害を受け、その機能を全く停止してしまったが、輸送手段から人命救出まで自動車のみが唯一の交通機関として、その復旧に大活躍した。これを契機に、日本の人々の自動車に対する認識が大いに変革され、以後急速な自動車への需要が喚起された。

 この光景を、喜一郎はまざまざと目の当たりにした。

 表3に、明治大正時代に自動車製造を試みたメーカーの一覧表を示す。

設立/製作開始年 メーカー名 所在地
1902年(明治35年) 双輪商会 東京
1904年(明治37年) 山羽虎夫 岡山
1904年(明治37年) 東京自動車製作所 東京
1909年(明治42年) 大日本自動車製造合資会社 東京
1909年(明治42年) 山田鉄工所(田束自動車製作所) 東京
1909年(明治42年) 芝自動車製作所 東京
1909年(明治42年) 宮田製作所 東京
1909年(明治42年) 日本自動車商会 東京
1909年(明治42年) 快進社自動車工場 東京
1909年(明治42年) 東京自動車製作所 東京
1909年(明治42年) 東京瓦斯電気工業株式会社 東京
1916年(大正5年) 金竜館製作所 神戸
1918年(大正7年) 川崎造船所 神戸
1918年(大正7年) 川崎車輌所 神戸
1918年(大正7年) 乗村機器商会 京都
1918年(大正7年) 汽車製造株式会社 大阪
1918年(大正7年) 大阪鉄工所 大阪
1918年(大正7年) 岸一太 東京
1920年(大正9年) 東京石川島造船所 東京
1923年(大正12年) オリエント自動車製作所 大阪
1923年(大正12年) 実用自動車株式会社 東京
表3 明治大正時代に自動車製造を試みたメーカー一覧

 表3に示すように、日本における自動車製造の歴史は、明治時代末期に始まる。

 本連載第7回の図12に示したように、1904年(明治37年)、岡山の山羽虎夫が日本で初めて自動車の製造を試みた。しかし、技術的/社会的な環境が整っておらず、数台の試作にとどまり、事業としては挫折した。この時期は、国産自動車の「揺籃期」と位置付けられる。

 その後、大正時代に入ると、自動車の軍事的価値に着目した日本の陸軍が、軍用自動車の確保を目的として民間の自動車製造を保護/奨励する政策を打ち出した。1912年(明治45年)には陸軍省に「軍用自動車調査委員会」が設置され、1918年(大正7年)からは軍用自動車の製造者や所有者に対して補助金が交付されるようになった。これは、戦時に必要な自動車を平時から大量に保有することが経費的に困難であるため、民間に製造/普及させ、戦時には徴発するという方針に基づくものであった。

 この政策に呼応する形で、1916年(大正5年)には東京瓦斯電気工業が自動車製造に着手し、1918年(大正7年)には補助法の適用を受けた。さらに同年、三菱造船所など複数の企業が補助対象となった。しかし、第一次世界大戦後の不況や本業の多忙化により、表3に示したほとんどの造船会社などは自動車製造から撤退し、東京瓦斯電気工業を除いて多くの企業が事業を中止した。

 このように、日本の自動車国産メーカーの技術力は極めて貧弱で、ほぼ何もできない状況にあった。

 ここで表4に、日本における自動車の普及状況を示す。

 表4からは、震災直前の1923年(大正12年)6月時点における自動車台数は1万6205台だったが、翌1924年(大正13年)6月には2万5001台となり、1年間で8796台(35%増)という急伸を記録していることが分かる。

 以降も自動車の台数は年々増加し、1925年(大正14)年には3万15台、1926年(大正15)年には3万8693台、1928年(昭和3年)には6万1471台と推移した。昭和初期に入るとその増加傾向はさらに顕著となり、1931年(昭和6年)には10万3963台、1934年(昭和9年)には13万4859台、そして1935年(昭和10年)には14万9635台に達した。これらの数値は、当時の日本社会における自動車の重要性と普及の進展を物語っている。

年代(統一表記) 台数 増加数 前年比増加率(%) 備考
1923年(大正12年)6月 16,205 - -
1924年(大正13年)6月 25,001 8,796 35
1925年(大正14年)6月 30,015 5,214 21
1926年(大正15年)6月 38,693 8,678 29
1927年(昭和2年)6月 49,463 10,770 28
1928年(昭和3年)6月 61,471 12,008 24
1929年(昭和4年)6月 61,471 - - ※統計では台数変化なし
1930年(昭和5年)6月 90,175 28,704 - ※2年分の増加数
1931年(昭和6年)8月 103,963 13,788 15 ※1年2カ月間の増加数
1932年(昭和7年)8月 118,351 14,388 14
1933年(昭和8年)8月 132,039 13,688 12
1934年(昭和9年)10月 134,859 13,667 11 ※1年2カ月間の増加数
1935年(昭和10年)10月 149,635 14,776 11
表4 日本における自動車の普及状況 出所:「機械」1938年4月号

 この急速な普及を支えたのは、主に外国車の供給であった。表5に昭和初期の供給台数を示す。1928年(昭和3年)には外国車が9793台、国産車はわずか347台であった。翌1929年(昭和4年)も同様に外国車9731台に対し、国産車は416台と微増にとどまっている。1930年(昭和5年)には外国車が2万3878台と倍増した一方で、国産車は458台と依然として少数派であった。

 同一の出所でないため、例えば、表4の1928年の自動車増加数は1万2008台であるが、表5の1928年の外国車台数は9793台、国産車台数は347台で、約2000台ずれている。ここでは、当時の雰囲気をご理解いただければよい。

年代(統一表記) 外国車台数 国産車台数
1928年(昭和3年) 9,793 347
1929年(昭和4年) 9,731 416
1930年(昭和5年) 23,878 458
1931年(昭和6年) 23,206 434
表5 昭和初期の自動車供給台数 出所:トヨタ自動車20年史

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