トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第10回は、豊田佐吉に大きな影響を与えた武藤山治について解説した後、豊田自動紡織工場や豊田紡織、中国の豊田紡織廠などを通して、人生の晩年に近づいた佐吉と、豊田紡織に就職し本格的に活動を始めた豊田喜一郎の活動を見ていく。
連載第4回から、トヨタ自動車の創業以前に時代を巻き戻し、自動力織機の発明によってトヨタ自動車創業に向けた礎を作り上げた豊田佐吉が活躍した時代の政治状況や織機技術の変遷、世界のクルマの発展などを紹介している。
今回はまず、豊田佐吉による国産自動織機の開発に大きな影響を与えた武藤山治について解説する。そこから、1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)を紹介した連載第9回に続き、1915年(大正4年)〜1921年(大正10年)を見ていく。
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さて、本来ならば連載第8回で触れるべき内容であるが、これまでの豊田佐吉の足跡を振り返るとともに、佐吉の信念に影響を与えたように思える時代背景と系譜として、図1に示す武藤山治※1)(特に「科学的操業法」)と佐吉の思想のつながりを見ておく。
連載第7回で説明したように、佐吉は「世界初の無停止杼換式自動織機を構成する豊田佐吉の3つの発明」として、緯(よこ)糸補給装置、経(たて)糸切断停止装置、経糸送出装置を発明した。
そして、連載第8回では、1905年(明治38年)に佐吉が自身の発明に基づいて大阪の木本鉄工所に試作させた豊田式自動織機を、ドレーパーやプラット・ブラザーズ、キップ・ベーカー(英国)の自動織機と比較する性能試験を行っている。
※1)武藤山治(むとうさんじ、1867年(慶応3年)〜1934年)は、愛知県鍋田で生まれた実業家、政治家。1884年慶應義塾卒業後、米国に留学。帰国後は広告業などを手掛けたが、1893年中上川彦次郎の紹介で三井銀行へ入社。神戸支店副支配人を経て、1894年三井傘下の鐘淵紡績(鐘紡、現在のクラシエホールディングス)へ移り支配人として活躍。1899年(明治32年)に中国の上海紡績を傘下に収めたのに次いで、国内の紡績業界会社を次々に吸収合併。鐘紡は、一躍国内トップクラスの企業へと進化していった。1902年(明治35年)には紡績所内に乳児保育所や女学校を設け、女性工員を尊重して福利厚生に努めた。鐘紡では日本初となる社内報を発行。鐘紡共済組合を設置し、中小業者と結んで営業税の廃止を求める営業税反対運動にも参加。1904年(明治37年)に兵庫工場に綿布の試験工場を設け、福原八郎を主任として各種織機の比較研究を行う。この研究所の中には豊田佐吉が出入りし、日本最初の力織機に改良を加えて豊田の自動織機を据え付けて発明を援助し続けた。1921年社長。鐘紡を大阪紡、三重紡、富士紡とならぶ4大紡の一つに成長させた。これとともに紡績業界で指導的役割を果たした。1923年、政界浄化と経済自由主義実現のため実業同志会を結成、衆議院議員として活動したが1932年に引退。晩年は経営難に陥っていた「時事新報」の経営を引き受けて再建するとともに紙上で政治的主張を展開。しかし自ら暴露した帝人事件の最中に、出社途上狙撃されて死去。主著「紡績大合同論」(1901年)、「政治一新論」(1921年)、「実業読本」(1926年)、「思うまま」(1933年)。
なぜ、このような佐吉製と海外製の自動織機の性能を比較する試験ができたのか? 連載第8回の文章を、武藤山治との関わりを追加すると以下のようになる(追加した箇所は太字)。
1905年(明治38年)に、豊田佐吉による1896年(明治29年)の豊田式汽力織機の発明に注目していた大手紡績会社の鐘淵紡績(のちの鐘紡)の武藤山治は、佐吉の発明を用いて大阪の木本鉄工所に試作させた試作自動織機について、輸入した英国製キップ・ベーカー式自動織機(経糸停止運動機能を持つ織機)、米国製ドレーパー式普通織機、英国製プラット・ブラザーズ式普通織機との性能比較試験を兵庫工場で1年にわたって、豊田佐吉と協力して実施した。
どうして、武藤山治と豊田佐吉は、協力したのか?
これまで見てきた明治後期の日本では「輸入機械の模倣→国産化」と「工場運営の合理化(科学的管理)」が同時並行で進んでいた。
豊田佐吉は1890年代に国産織機の研究を開始し、日本で初めての国産力織機を開発したように、“織機という機械側の自働化(故障/品質検知の仕組み)”を発明という形で進めた。しかし、設備と資金の不足により実験環境が不安定であった。
武藤山治は、1903年ごろから豊田佐吉の技術に注目しており、当時の織布/紡績業の近代化を強く意識していた。「国産織機を本格的に発展させるには、実験研究の場が必要」と認識し、“人/工程側の標準化/科学的管理”を経営手法として進めた。1904年(明治37年)、鐘淵紡績の兵庫工場に福原八郎を主任として、各国の織機を比較し改良点を科学的に検討するための実験/研究施設「綿布の試験工場(研究所)」を新設した。同年、豊田佐吉の試験工場への出入りを武藤山治が受け入れ、設備を提供。佐吉は、ここで日本初の力織機の改良を続け、自動織機の実用化を加速した。
これによって、連載第8回で見てきたように、1905年(明治38年)〜1910年(明治43年)に佐吉が開発した自動織機の完成度は高まる。中でも、無停止自動織機の基礎技術はこの時期に確立された。
研究所の試験設備では多数のトライアルが実施された。この両者の協力が、後に豊田自動織機(後のトヨタグループ)の礎となり、日本の織機技術の工業化が一気に進んだ。武藤山治の支援がなければ、この進展は遅れた可能性が高いように考えられる。
豊田佐吉と武藤山治は、異なる視点や経路から同じ目標(ロス削減、品質安定、生産性向上)を追い、相互に補完して日本紡績業の近代化を推進した。
主に次の2つが理由として考えられる。
明治後期には英国と米国の紡績/織布機械が大量に輸入され、国内紡績業は機械化で急速に成長した。しかし、輸入機械は高価で、保守や改良の点で国内産業の実情に合わないところがあったため、国産の安価で現場に即した機械が求められていた。これが「国産織機開発」と「工場内管理の合理化」を並行して促した。
紡績業の拡大により「糸切れ、機械故障、不均質品質」がコストと競争力の主要因になり、これを解決する技術(機械側)と管理(人/工程側)の双方が求められた。武藤ら経営者は労務/工程のバラつきを放置すれば工場全体の競争力が落ちると認識していた。
佐吉は1896年(明治29年)に「豊田式汽力織機」(フレームは木と鉄を組み合わせた木鉄混製の動力織機)を完成させ、日本で最初期の実用動力織機を生み出した。主要な技術的特徴は、自動停止機構(経糸切れや緯糸切れの検出で自動停止)、緯糸自動補充、巻き取りなどの自動化装置を備え、従来の手織り/人力織機と比べて生産性と品質を大幅に高めた点にある。さらに「安価で堅牢」に作ったため普及力があった。
佐吉の発明に注目した大手紡績会社である鐘淵紡績(鐘紡)は、佐吉の発想で大阪の木本鉄工所に試作させた国産試作自動織機を、英国製キップ・ベーカー式、米国製ドレーパー式、英国製プラット・ブラザーズ式と比較する長期の性能試験を、兵庫工場で約1年間実施した。結果として、当時の木鉄混製の国産試作機は、広幅鉄製で大量生産された英米製機械に比べ性能で劣ると評価された(木製フレームや製造技術の差が理由)。とはいえ、この比較試験自体が国産機の改良点を明らかにし、その後の改良と大量生産(フレームの鉄製化)へとつながる重要な契機になった。
佐吉の発明は連載第7回で説明した「機械側からのムダ排除、エラー自動検知(=糸切れで停止)」という現場レベルの自働化を提示した点で画期的であった。初期試作は耐久性や生産/材料面で課題があったものの、「機械がエラーを検出して自己停止する」「自動補給する」などの考え方は、後の自動織機(無停止杼換式G型など)や日本の工場合理化に重要な技術的基礎を与えた。
武藤山治は、後のカネボウとなる鐘淵紡績の経営を担い、「紡績王」と呼ばれた実業家である。経営と労務管理の思想家でもあり、「経営家族主義」「温情主義」など日本的な経営論、特に「科学的操業法」「木綿論」も展開した。
武藤は1900年前後から各工場の工程を科学的に調査/分析し、問題点(品質ばらつき、機械保全、作業の非効率)を数値的に把握して改善策を打つ、といった方法を導入した。これが「科学的操業法」と呼ばれる。具体的には以下の4点にまとめられる。
武藤は当初、米国で生まれたテイラーの「科学的管理法」に影響を受けつつも、日本の現場に合う形で「精神的操業法(温情主義的要素)」とも結び付けて実践した。
1913年ごろの著作/言説で、武藤は綿工業の生産管理、品質、操業法について方向性を示した。これらは鐘紡全社の工程統一と標準化を進める上で理論的支柱となり、現場での細かい不良低減(糸切れ対応やムダ削減)と結び付いた。
両者の取り組みがどのようにつながっていったのか。以下に4つの論点で整理した。
つまり両者は、“現場のロスをゼロに近づける”という同じ問題に異なるアプローチ(機械的自働化vs.人/工程の標準化)で対処した。
ここからは、技術⇔管理の双方向性の重要さが見えてくる。
自働化機構(糸切れ停止、自動補給など)を発明し、日本の織機技術の萌芽を作る。だが即時に輸入機に匹敵する大量生産技術はなく、比較試験で性能差も明らかになった(1905年の鐘紡試験など)。
「科学的操業法」で工程/作業/保全を数値化/標準化し、機械の長所を実際の生産に反映させる。武藤の取り組みは、単なる「温情」ではなく、品質向上と収益向上を目指した合理主義だった。
織機(機械)改良(フレームの鉄製化や自働化機構を備えた自動化の高度化)と管理改善(標準化/保全)の両輪で、20世紀初頭〜中盤にかけて日本の紡績業は飛躍的に合理化と品質安定を果たした。豊田佐吉の技術は「機械が仕事の一部を自動でやる」ことの可能性を示し、武藤山治の方法は「人と工程を整備してその可能性を現場で最大化する」枠組みを与えた──この相補性が系譜であり、日本的近代生産の重要な要素である、と考えられる。
豊田佐吉が晩年に発表した「綿業立国論」※2)は、武藤山治の「木綿論」の影響が強く表れたものと思われる。
※2)豊田佐吉の「綿業立国論」とは、日本が必要とする綿製品を外国からの輸入に頼るのではなく、国産化によって自給自足し、最終的には綿花の輸入代金と綿糸布の輸出代金を相殺して日本の経済的自立を目指すという壮大な理想(報国の精神)である。
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