大戦景気で拡大する日本の紡績産業、豊田佐吉の事業と研究も継承の段階へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(10)(5/5 ページ)

» 2026年01月22日 06時00分 公開
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9.豊田佐吉の事業と研究を次世代に受け継ぐ準備が整う

 豊田佐吉の事業と研究を次世代に受け継ぐ準備は整いつつあった。

 1918年(大正7年)10月、第一次世界大戦の勃発で、中国市場では英国綿製品の輸入がストップしたため、日本の紡織会社の中国進出が活発化した。その影響で、佐吉は単身で中国大陸の上海、中支(揚子江中/下流域、江蘇(こうそ)、安徽(あんき)、浙江(せっこう)、江西、湖北、湖南の各省)の各地へ赴き、織物事業と新たな紡績工場の設立の可能性を調査した。この計画は実現までにさらに3年を要する。佐吉の海外生産拠点を求めた主な理由は次の2つだ。

  • 事業の枠を超えて、他の日本の紡績会社が行わないのに海外で生産拠点を展開することで、中国との関係改善、日華親善という国益にかなうと考えた
  • 日本の生活水準と賃金は上昇しており、日本の賃金優位性が今後も続くことはないことを認識していた

 佐吉が、低賃金経済社会の中で、この織機の研究開発を続けるには、個人的に経営する紡績会社を設立するという戦略的な思索があったと思われる。

 1919年(大正8年)、パリ講和会議開催。6月ベルサイユ講和条約調印。3月1日に朝鮮半島で三・一運動。モスクワでコミンテルン創立大会。7月13日、寛城子事件※10)。カルピス発売。選挙法改正。全国普選期成大会開催。「パイノパイノパイ(東京節)」の流行。フランスのシトロエン設立※11)図6は1919年製のシトロエンタイプAを示す。図7に示す日本車初の量産乗用車「三菱A型」※12)が三菱造船によって誕生。

図6 図6 1919年製のシトロエン タイプ A 10HP 出所:シトロエン目黒スタッフブログ
図7 図7 三菱A型 出所:三菱自動車

※10)寛城子事件(かんじょうしじけん)は、1919年7月19日に満洲寛城子(長春内の行政区分)で発生した日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件。長春事件ともいう。

※11)シトロエンは、1919年に創業者であるアンドレ・シトロエンによってフランスのパリに設立された。欧州で初めてヘンリー・フォード式の大量生産技術を導入した自動車メーカー。シトロエンは、同年に欧州初の大量生産車である「タイプA」を発売。セダン型では全長約3.68m、全幅約1.41m、4気筒1327cc(18HP)エンジンを搭載の後輪駆動車で、3段変速で最高時速65kmの性能。ホイールベースの異なる2つのシャシーがあり、幌付き4人乗りセダン、密閉式4人乗りセダン、3人乗りセダン、トラック、バンなどがあった。1921年まで生産され、B2にモデルチェンジした。タイプAは1年間に約2万台が生産された。設立当初から、革新的な技術と低価格な大衆車を数多く生み出した。その独創的なデザインと技術は現在も受け継がれている。

※12)三菱A型は、三菱自動車の前身である三菱造船が神戸造船所で1917年にフィアットA3ー3型車を模して荘田泰蔵氏(後の新三菱重工業副社長)などが試作を開始し、1918年に完成。種類:7人乗り箱型(幌型)、車軸間距離:9フィート(約2.7m)、左右車輪間距離: 4フィート8インチ(約1.4m)、重量:2900ポンド(約1300kg)、機関:水冷/直4気筒単一鋳、気筒経8と8分の1インチ、衝程5.5インチ、排気量:2765(977)cc、課税馬力13.3、実馬力35。1921年までに22台が生産された。

 第一次世界大戦の影響で英国製の綿製品の輸入が止まり、中国市場では日本製品の需要が高まっていた。

 1919年(大正8年)8月1日には中国の輸入関税率が綿糸布価額の3.5%程度から5%へと引き上げられ、これをきっかけに、中国での現地生産に拍車が掛かった。1914〜1925年に中国では87の紡織工場が設置されたが、そのうち日系は17社33工場にのぼった。

 豊田佐吉は、西川秋次を伴い神戸港から出港し、中国に渡航、上海に滞在。目的は、上海に本格的な紡織一貫工場を建設すること。秋次は工場用地の確保に奔走したが、日中間の政治的な問題もあり、交渉は難航した。それでも、秋次の東京高等工業学校時代の同級生で三井物産上海支店に勤務していた古市勉の支援もあり、工場建設の準備が進んだ。なお、同時期に坂本久五郎※13)が木本鉄工所を退社している。

※13)阪本久五郎(1882〜1961年)は、日本の奈良県當麻村で生まれた発明家、実業家。自動織機を発明。1908年に大阪高等工業学校機械科を卒業。卒業後は鉄道院の技術官で生産技術を学ぶ。1914年に退職し、大阪の木本鉄工所に入社して織機や仕上機の国産化に貢献したが、木本鉄工所が豊田式織機と合併した後、製造機種が90種類にも及ぶようになり、経営が非効率になった。坂本はこの状況を見て、「生産会社はなるべく少ない機種に絞るべきだ」と強く認識。1921年に自営を始める。同年に鈴政式織機会社(現在のエンシュウ)に支配人兼技師長として入社。1924年に同社の専務取締役兼技師長。1926年に経糸切断停止装置を発明。1927年に緯糸切断停止装置を発明。1928年に管巻機を発明。1932年(昭和7年)に社長に就任。1933年に8年式阪本式自動織機を発表。

 1920年(大正9年、国際連盟設立。尼港事件※14)。新婦人協会設立。上野公園で日本初のメーデー。同年5月10日、第14回衆議院議員総選挙(政友会278議席、憲政会110議席、国民党29議席、無所属47議席)、第1回国勢調査(総人口7698万8379人、内地5596万3053人)。明治神宮造営工事が施工。11月4日、尾崎行雄、犬養毅、島田三郎らが政界革新普選同盟会を結成。1月、東洋コルク工業(現在のマツダ)設立※15)

※14)尼港事件(にこうじけん)は、シベリア出兵中の1920年(大正9年)、ソ連のパルチザンが尼港で日本人捕虜などを殺害した事件。日本の世論は激高し、日本軍は事件解決まで北樺太(からふと)を保障占領した。

※15)東洋コルク工業(現在のマツダ)は、1920年1月30日に創業者の松田重次郎(まつだじゅうじろう)が、広島県に設立。当初はコルクの製造販売をしたが、1927年(昭和2年)に東洋工業へ社名を変更し、工作機械の生産に方向転換。1931年(昭和6年)、自動車製造に進出して三輪トラック「マツダ号」の生産を開始し、自動車工業に進出した。1984年(昭和59年)に現在の社名であるマツダへ改称。ちなみに、松田重次郎(1875〜1952年)は、明治〜昭和時代の実業家。1908年(明治41年)に松田式ポンプを発明し、1915年(大正4年)松田製作所を設立。1920年(大正9年)広島で東洋コルク工業の設立に参加し、翌年社長。

 佐吉は中国に個人経営の企業設立を決意。1920年以降、他の日本の紡績会社も中国に子会社を設立した。佐吉はこれに応えて事業を拡大し、上海に豊田紡織所を設立。資本金は500万両(約500万円)で、佐吉は工場長を務めた。この工場には6万台の紡機と400台の織機があった。佐吉は事業の成功を確実にするために、家族を上海に移住させた。西川は繊維会社の経営管理を依頼された。

 表9は、1920年(大正9)年に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は1件。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第9回の図3)
39749 佐吉(本人) 大正9.12.14 大正10.8.30 環状単流原動機
表9 1920年(大正9年)に豊田佐吉が出願した特許

 佐吉は、往復運動よりも円運動の方がエネルギー効率が良いと考え、「元来、現在往復運動に據るものよりは、循環運動に據るものこそ私どもの理想とする織機であらねばならぬ」との理由から、環状織機の発明に取り組んだ。佐吉は、表9に示すように「環状単流原動機」を発明し、特許を取得。

 佐吉が発明した「環状織機」や「環状単流原動機」などの技術は、エネルギー効率や騒音低減に優れた革新的なものだった。喜一郎は父佐吉の信念、研究を引き継いだ。佐吉の死去後、1932年(昭和7年)には東京で開催された第4回発明博覧会に環状織機を出展するなど、父の技術を世に広める役割も果たした。

 佐吉は、三井物産の支援で上海に建坪約1万坪の紡織工場の建設に着手した。この工場は1921年5月に完成する(詳細は後述)。また、上海に私邸(旧独国人住宅)を購入。

 豊田喜一郎は1920年7月に大学を卒業するが、卒業設計として「上海紡績工場原動所設計書」を提出し、在学中から父佐吉の事業に技術面で関与していた。卒業後、企業経営に関係する法律や社会制度を学ぶために、1920年9月〜1921年3月に法学部に在学し、憲法(上杉慎吉)、民法(末弘厳太郎)、商法、工場経営学(渡辺鉄蔵)、会計学(上野道輔)、社会学(建部遯吾)などを聴講した。

 当時、豊田利三郎は常務取締役として、工場建設で上海に滞在する佐吉の留守を取り仕切っていた。佐吉と技師長の西川秋次が上海の紡績工場建設にかかりきりで、技術担当の責任者が名古屋に不在となり、とりわけ紡績技術について、豊田紡織内で育った技術者がいなかったため、喜一郎はその後豊田紡織に入社する。

 喜一郎の日記には、1921年4月8日(金)の欄に、「昼ヨリ菊井(菊井紡織)ヘ行ク。荷物ヲ中村ノ工場ニハコビ、今夜ヨリ中村工場ニ寝泊リスル事ニシタリ」とある。当時、菊井紡織では、米国ホワイチン製の紡績機械を増設しており、同社の技術者が据え付け調整を行っていた。喜一郎は、紡績技術を学ぶために菊井紡織へ赴いた。

 一方、佐吉は上海と名古屋を行き来し、名古屋の実験施設の自動杼交換式織機を8台から32台に拡張し、その作業を監督した。自動織機の完成に向けて技術開発に没頭していたが、年齢的にも体力的にも限界が近づいていたようである。佐吉は「わしは織機をつくってお国に尽くした。お前は自動車をやれ」と喜一郎に言っていたそうで、これは単なる言葉ではなく、技術と志の継承を意味していた。

 1921年(大正10年)3月、皇太子裕仁親王の欧州訪問の実施と摂政への就任。9月、資産家への恨みと格差社会への不満で財閥総帥の安田善次郎暗殺。11月、首相の原敬が東京駅で暗殺され、内閣総辞職。高橋是清内閣が成立。スペインかぜ感染終焉。羽仁もと子の自由学園が創立。

 豊田佐吉は、図8に示す上海工場が1921年5月に完成させ、同年11月に豊田紡織廠(中国名は豊田紗廠)を設立した。紡機6万錘の工場を持つ豊田紡織廠は、主に20番手の綿糸を紡出し、1923年(大正13年)にはさらに織機400台を増設する。この事業の成功は、後の豊田自動織機製作所の設立や、その特許料を基にした国産自動車の研究開発へとつながり、トヨタグループの礎としてその後のトヨタグループの発展に重要な役割を果たした。表10に豊田紡織廠の概要を示す。

図8 図8 豊田紡織廠の全景 出所:トヨタ自動車「トヨタ75年史」「上海豊田紡織廠記念館案内」
項目 内容
所在地 上海極司非而路2200号
資本金 上海銀1000万両(500万両内払込済み)
経営陣 社長:豊田佐吉、取締役:豊田利三郎、児玉一造、西川秋次、石黒昌明、監査役:藤野つゆ、豊田喜一郎、村野時哉、鈴木利蔵
従業員 日本人100人、中国人3500人
工場設備 紡機3万5712錘(プラット製)、撚糸機1万5312錘(ホワイチン製)(織機は1924年8月に406台が稼働開始)、据付錘数6万1526錘、据え付け織機台数960台
生産高(1年) 綿糸(二十番手)6万4200梱、粗布95万5000反
表10 豊田紡織廠の概要

 佐吉は豊田紡織廠の社長に就任したものの日本国内にいることが多く、実質的な経営は西川秋次が担った。秋次はその後も1949年までの約30年間、上海を拠点に活動を続けた。

 表11に、1921年(大正10年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は1件。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2の番号)
39534 佐吉(本人) 大正10.3.12 大正10.8.15 28.投杼安全装置
表11 1921年(大正10年)に豊田佐吉が出願した特許

 豊田喜一郎は、1921年3月に東京帝国大学法学部を中退し、4月に豊田紡織に入社する。入社後、まず紡織機の開発に携わり、父である佐吉の技術を実地で学びながら、欧米の技術にも目を向けていた。1921年7月、豊田利三郎の欧米視察に同行し、現地で大量の自動車が走る様子を目の当たりにする。これが彼にとって大きな衝撃となる。

 「これからの交通機関を支配するのは、自動車に違いない」と直感した喜一郎は、父の織機技術を完成させることを優先しつつも、自動車への夢を抱き始めるようになる。

 喜一郎は1921年7月29日に横浜から春洋丸に乗船し、8月14日にサンフランシスコに到着した。米国では、9月まで綿花栽培地や綿業地、繊維機械工業などを視察。その後10月1日に、英国のロンドンに到着。精力的に綿業地や繊維機械工業を視察。1921年の渡英期間は、1921年10月〜1922年5月の約半年。主にマンチェスター近郊の紡績機械メーカー、プラット・ブラザーズ(Platt Brothers)(オールダムに所在)で綿密な視察や同社の紡績機械の製造工程、製造方法に関する研修期間中も、管換式自動織機の技術研究を行った。

 そして喜一郎は、1921年(大正10年)以降、自動織機を集中的に研究し、投杼装置(特許第50940、39534号)、よこ糸探り装置(特許第50940号)、杼換装置(特許第65156号)などの佐吉の発明を援助した。(次回に続く)

参考/引用文献

  1. トヨタ自動車75年史
  2. トヨタ自動車「創造限りなく トヨタ自動車50年史」、大日本印刷、1982年11月3日
  3. 産業技術記念館資料
  4. 「四十年史」、豊田自動織機製作所、1967年11月18日
  5. 「豊田佐吉伝」、豊田佐吉翁正伝編纂所、1933年1月1日
  6. 曽根英秋、トヨタの中国進出―1921年〜2017年―、愛知大学リポジトリ、2018年
  7. Wikipedia
  8. GAZOO「ロールス・ロイスとベントレー(1906年)
  9. GAZOO「オートモ号の真実(1925年)
  10. GAZOO「<カーオブザセンチェリー>T型フォード(1908年)
  11. シトロエン目黒スタッフブログ
  12. 三菱自動車2019年11月8日付ニュースリリース、『三菱A型』2019日本自動車殿堂 歴史遺産車に選定
  13. 笠井雅直「発明と製造をめぐる両豊田の吸引と反発-豊田自動織機製作所設立小史-」、名古屋学院大学論集 社会科学篇、第50、第4号、pp.37〜58
  14. William Mass and Andrew Robertson「From Textiles to Automobiles: Mechanical Organizational Innovation in the Toyoda Enterprises」、1895-1933、THE 1996 NEWCOMEN PRIZE ESSAY、BUSINESS AND ECONOMIC HISTORY、Volume Twenty-five、no.2、Winter 1996.Copyright、1996 by the Business History Conference、ISSN 0849-6825
  15. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第1回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.2、42〜47、2014年2月
  16. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第2回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.4、36〜41、2014年4月
  17. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第3回 1960年代後半から1970年代のトヨタ自動車のものづくりの形態」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.30、No.7、36〜41、2014年7月
  18. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第4回 1950年代後半から1970年ころまでのものづくり形態の概要 その1」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.31、No.3、40〜44、2015年3月
  19. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第5回 1950年代後半から1970年ころまでのものづくり形態の概要 その2」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.31、No.11、42〜47、2015年11月
  20. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第6回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.2、44-49、2018年2月
  21. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第7回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.5、40〜48、2018年5月
  22. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第8回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.10、42〜47、2018年10月
  23. 武藤一夫「トヨタ自動車におけるデザイン・ものづくりプロセスの変革 第9回」、Gichoビジネスコミュニケーション、実装技術、Vol.34、No.2、42〜47、2018年2月
  24. 武藤一夫「はじめてのCAD/CAM」、工業調査会、2000年2月(B5判/285ページ)
  25. 武藤一夫「進化しつづけるトヨタのデジタル生産システムのデジタルのすべて」、技術評論社、2007年12月(A5判/271ページ)
  26. 武藤一夫「図解CAD/CAM入門」、大河出版、2012年8月(B5判/305ページ)
  27. 武藤一夫「実践メカトロニクス入門」、オーム社、2006年6月(B5判/228頁)
  28. 武藤一夫「実用CAD/CAM用語辞典」、日刊工業新聞社、1998年6月(B6判/316頁)
  29. 武藤一夫「エンジニア必携トヨタに学ぶデジタル生産・事例・用語集」、産業図書、2021年12月(A5判/887ページ)

筆者プロフィール

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武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)

1982年以来、職業能力開発総合大(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。

トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。


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