大戦景気で拡大する日本の紡績産業、豊田佐吉の事業と研究も継承の段階へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(10)(4/5 ページ)

» 2026年01月22日 06時00分 公開

7.「大戦景気」の最盛期を迎えた日本経済

 1917年(大正6年)4月20日、第13回衆議院議員総選挙(政友会165議席、憲政会121議席、国民党35議席、無所属60議席)。ロシア革命。中国での日本権益に関する米国との石井・ランシング協定締結。

 表6は、1917年(大正6年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は1件。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第9回の図2内の名称)
31865 佐吉(本人) 大正6.5.10 大正6.12.10 環状単流原動機
表6 1917年(大正6年)に豊田佐吉が出願した特許

 さらに同年、豊田佐吉は「環状単流原動機」を改良して「環状原動機」を発明し、特許を取得する。

 1917年は、佐吉が技術、組織、家族の三位一体で事業の基盤を固めた年といえよう。

 1917年(大正6年)の日本経済は、第一次世界大戦による「大戦景気」の最盛期にあり、未曽有の好景気に沸いていた。欧米諸国が戦争で疲弊した結果、それまで輸入に頼っていた重化学工業製品の国産化が進み、また連合国への輸出品や軍需品の供給が急増したためであった。この年、工業生産額が農業生産額を上回り、特に造船業、鉄工業、機械工業、化学/薬品工業など重化学工業分野で成長が顕著になり、これを背景に、「成金」と呼ばれる人々が多く現れ、国民生活にも大きな変化が生まれる。すなわち、重化学工業の発達によって工業地帯が形成され、都市化が進行し、洋間を採り入れる「文化住宅」が流行し、快適な生活環境を求め郊外に移り住むサラリーマンや労働者は、洋服を着て私鉄電車に乗り、都市中心部に通勤するようになった。そして、より流行に敏感な「モダンボーイ」「モダンガール」も登場し、大正デモクラシー※8)が盛り上がる。

※8)大正デモクラシーとは、大正年間(1912〜1926年)に日本で起こった、政治、社会、文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称。

 1918年(大正7年)、シベリア出兵。米騒動。松下幸之助が「松下電気器具製作所」を創設して、価格が3〜5割ほど安く、しかも品質が高い、「二股ソケット」を販売し、電灯と別の電化製品(アイロンなど)を同時に使えるようにした。「当たり前の不便」を解消したことと日本の電化を推進した意義は絶大。第一次世界大戦終結。スペインかぜ流行拡大(第1波)。大学令公布。東京海上ビル完成。3月軍用自動車補助法公布。8月、快進社自働車工場が快進社として新発足。図4に示す日本車初のトラック「T.G.E.トラック」※9)が東京瓦斯電気工業(英名略称:T.G.E.)によって製造、販売される。

図4 図4 TGE-A型トラック[クリックで拡大] 出所:自動車技術会「日本の自動車技術330選

※9)TGE-A型トラックは、1910年に創業しガス器具計測器など種々の工業製品を製造販売していた日野自動車の前身である東京瓦斯電気工業が、1917年に自動車製造への進出を意図して大森に新工場を建設し、当時同社が輸入/架装/販売してい米国のリパブリックを参考に、独自に設計製造し、1917年に完成した最初の国産量産トラック。同車は1918年公布の「軍用自動車補助法」の対象である「軍用保護自動車」の審査を受け、この認可第一号。「軍用保護自動車」とは国産軍用車奨励策として軍用車の要件を満たす車に対して補助金を出す制度。ブランド名“TGE”は東京瓦斯電気工業の英文名“Tokyo Gas & Electric Inc.”の頭文字の略。

8.第一次世界大戦を追い風とした豊田佐吉家族と経営の融合

 豊田佐吉は、「実際の工場で自分の織機を使い、改良点を自分の目で確かめたい」という信念で、1890年代から「豊田式力織機」「豊田式自動織機」を発明してきた。しかし、当時の織物業者は新しい機械導入に慎重で、佐吉の発明した自動織機が十分に実用化されなかった。

 これにくじけず、自らの発明した自動織機の普及に向けて、自社工場にその自動織機を据えて生産するため、豊田自動織布工場(1911年)や菊井紡織(1918年3月)を立ち上げ、生産と経営を実践してきた。

 そして、これらは単なる工場ではなく、「発明⇒生産⇒改良⇒再発明⇒理想的な生産と経営」という一連の佐吉の信念を実証する技術開発の展開として、豊田自動織布工場を母体として豊田紡織(1918年1月)を設立した。

 つまり、豊田佐吉は「単なる家ではなく、技術を実産業に結び付けて社会を豊かにする」という信念を持っていた。自社で織布事業を行うことにより「機械の性能」「作業効率」「生産コスト」などを具体的に検証すること、すなわち「発明、生産、経営を一体化した体制の『技術と産業の融合モデル』」を狙ったといえよう。

 豊田紡織が持つ紡機は、当初6000錘から1万5000錘に、さらに一躍2倍の3万錘に増加し、織機も同様に1000台に増設され、工場規模は年を追って発展を重ねた。もはや個人事業である同社の本社事務所経営では円滑に運営できないほどの規模になっていた。

 1918年(大正7)年1月19日、創立総会が開催され、紡機3万4000錘、織機1000台、男女従業員約1000人から成る豊田紡織が誕生した。

 表7に、豊田紡織の1918年設立時の概要を示す。

項目 内容
所在地 愛知県愛知郡中村大字栄字米田1716番地(現・名古屋市西区則武新町4丁目)
資本金 500万円(払込200万円)で設立準備、その後300万円(約150万ドル)として法人化
経営陣 社長:豊田佐吉/常務取締役:豊田利三郎/取締役:藤野亀之助/監査役:児玉一造
工場設備 紡機:3万4080錘(プラット製)/織機:1008台(豊田式、自動杼交換機構付きは8台)/従業員:約1000人
その他 ・設立総会:1918年1月19日
・法人化:1918年1月30日
・株主構成(10万株):豊田家3人(佐吉4.8万株、利三郎1万株、喜一郎500株)で58.5%、藤野亀之助夫妻29.5%、児玉一造一家9.7%
・トヨタグループの源流企業。後に豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)、トヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)、愛知製鋼などを派生
表7 豊田紡織株式会社(1918年設立時)の概要

 豊田佐吉は、1918年(大正7年)1月30日、紡織工場を株式会社に改組したが、かつての井桁(いげた)商会や豊田式織機での苦い経験から、今後の自身の事業では、一切他力を頼らぬこととし、500万円(払い込み200万円)の資本金も、豊田一族と親族となった児玉家や家族同様親しくしてきた藤野亀之助などの間だけで整えた。

 これによって、それまで個人経営だった「豊田自動紡織工場」を法人化し、図5に示す豊田紡織の設立につなげた。同社は、現在のトヨタグループの源流にあたる重要な企業であり、後に豊田自動織機製作所やトヨタ自動車工業を生み出す母体となった。佐吉は社長に就任。娘婿の利三郎は常務。資本金は300万円(150万ドル)。新会社は、リングスピンドル3万4000台、力織機1000台(そのうち自動杼交換機構を備えていたのは8台のみ)、従業員1000人と主要株主を擁した。

図5 図5 豊田紡織株式会社設立時の本社事務所 出所:豊田織機製作所40年史

 豊田紡織の設立時における10万株の株主構成は、佐吉(4.8万株)、利三郎(1万株)、喜一郎(500株の豊田家3人で58.5%、藤野亀之助夫妻(2.95万株)で29.5%、児玉一造一家で9.7%と、ほぼ一族と親友による共同経営だった。佐吉の弟たちは株式をほとんど持たず、それぞれ独立した事業を展開していた。このとき、長男の喜一郎は東京帝国大学工学部で学生であり、勉強中だった。

 1914年に始まった第一次世界大戦は、欧米の綿製品輸出を停滞させ、日本の綿業界に空前の好景気をもたらした。豊田紡織もこの波に乗り、1916年には既に紡機3万錘、織機1000台の規模に達していたことは既に述べた。

 豊田佐吉は、その第一次世界大戦による好況の下、上述の豊田紡織の設立から2カ月もたたない時期に、紡績と織布を兼ねた紡織事業の拡張を図った。

 1918年(大正7年)3月、豊田佐吉、藤野亀之助、児玉一造らの出資により、紡績と織布を兼ねた菊井紡織を設立。専務には佐吉の実弟の佐助が就任する。菊井紡織の概要は表8に示す通りだ。

項目 内容
所在地 名古屋市中区米野町字頓ヶ島29-1(現在の名古屋市中村区豊成町周辺)
資本金 400万円(250万円払込済み)
経営陣 専務取締役:豊田佐助、取締役:児玉一造、豊田平吉、豊田利三郎、監査役:豊田佐吉、土屋富五郎
工場設備 紡機3万5322錘、織機588台
表8 菊井紡織の概要

 豊田紡織の設立は、佐吉が発明と経営を両立させるための体制整備として行ったもので、資本面では豊田家と、三井物産の関係者で家族同様親しくしてきた藤野亀之助による共同出資の形をとった。

 上述したように、佐吉が早期に紡績と織布の一貫体制を築いていたこと、そして自動織機の試験と改良を並行して進めていたことが大きな要因だった。

 豊田紡織における紡績と織布の一貫体制は、佐吉が発明に集中しながらも、経営は信頼できる家族と親友に任せるというスタイルと、前述の「発明、生産、経営を一体化した体制の『技術と産業の融合モデル』」を確立したことを示している。

 菊井紡織は、1929年10月24日(木曜日)の「暗黒の木曜日」に始まった米国のウォール街での株価大暴落をきっかけとした世界恐慌時の綿業不況に伴う経営合理化のため、1931年(昭和6年)に豊田紡織に吸収合併され、豊田紡織南工場と改称された。その後、1942年の紡織5社の合併により、中央紡績愛知工場、1943年にはトヨタ自動車工業への合併とともに、同社航空機愛知工場となった。

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