ここからは本論に戻る。図2に、1915〜1921年における日本の経済成長率の推移と主な事柄、豊田佐吉の発明、喜一郎の経歴を示す。
また、表1(連載第9回の表2から抜粋)に、豊田式織機の1909年(明治42年)〜1915年(大正4年)の製造台数を示す。
| 年次(和暦・西暦併記) | 製造台数 | 価格(円) |
|---|---|---|
| 1909年(明治42年)4月〜1910年(明治43年)3月 | 3,800 | 350,000 |
| 1910年(明治43年)4月〜1911年(明治44年)3月 | 4,000 | 390,000 |
| 1911年(明治44年)4月〜1912年(明治45年)3月 | 4,600 | 360,000 |
| 1912年(明治45年/大正元年)4月〜1913年(大正2年)3月 | 4,600 | 360,000 |
| 1913年(大正2年)4月〜1914年(大正3年)3月 | 3,000 | 390,000 |
| 1914年(大正3年)4月〜1915年(大正4年)3月 | 3,500 | 450,000 |
| 1915年(大正4年)4月〜1916年(大正5年)3月 | 3,500 | 450,000 |
| 1916年(大正5年)4月〜1917年(大正6年)3月 | 5,000 | 1,130,000 |
| 1917年(大正6年)4月〜1918年(大正7年)3月 | 12,000 | 3,500,000 |
| 1918年(大正7年)4月〜1919年(大正8年)3月 | 12,000 | 4,300,000 |
| 1919年(大正8年)4月〜1920年(大正9年)3月 | 13,000 | 5,000,000 |
| 1920年(大正9年)4月〜1921年(大正10年)3月 | 12,000 | 3,200,000 |
| 1921年(大正10年)4月〜1922年(大正11年)3月 | 15,800 | 3,270,000 |
| 1922年(大正11年)4月〜1923年(大正12年)3月 | 8,600 | 2,540,000 |
| 1923年(大正12年)4月〜1924年(大正13年)3月 | 8,760 | 2,111,000 |
| 1924年(大正13年)4月〜1925年(大正14年)3月 | 7,250 | 1,839,000 |
| 1925年(大正14年)4月〜1926年(大正15年)3月 | 6,950 | 2,279,000 |
| 表1 豊田式織機の1909年(明治42年)〜1915年(大正4年)の「製造概数」 | ||
日露戦争後、約20億円に及ぶ巨額戦費の支出を賄うため、増税と多額の公債発行が行われ、日本経済はインフレーションが起こって悪化し、不況となり、その間は織機の注文も少なく、業績不振のため、配当もできない状況となった。
しかし、豊田佐吉のたゆまぬ自動織機の発明と改善、そして彼の徒弟との一体的なモノづくり体制と信念の成果として、豊田式織機の機械工場における製造技術が進歩し、それによって織機の精度や剛性などの性能が向上する。
また、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦がもたらした好景気により、1915年(大正4年)から1916年(大正5年)で生産台数と価格が2倍以上になり、1916年(大正5年)から1917年(大正6年)では価格が3倍以上と大きく値上がりし、翌年度は製造台数が2倍以上に増加するなど空前の活況を呈し、織機製造の売り上げが製造価格総額から見るとそれ以前の10倍以上の増加となった。後述するが、1918年(大正7年)10月、佐吉は単身上海に渡って中国中部の各地を回り、1919年(大正8年)には中国に進出していく。1920年(大正9年)3月期は、一挙に10割増となる150万円にも及ぶ多額の株主配当を行った。
しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大地震の被害影響によって日本経済は悪化し、その影響で表1にも示したように豊田式織機の製造台数は大幅減となった。そのため、豊田紡織は自動織機の開発を急ぐとともに、中国の関税増大対策のため、上海に豊田紡織株式会社を設立して中国市場を押さえる方向にいく。
第一次世界大戦の影響によって、従来用いられていた英国の紡織機の輸入が途絶し、米国機で代用しようとしたが、特に織機に関しては入手の容易さ、性能、価格などの面から、日本国産の豊田式織機が注目され、国内市場における広幅織機分野の掌握の機会となった。その結果、豊田式織機は著しい事業拡大を達成し、紡機分野へと転換と拡大を図る。
連載第9回でも述べたが、佐吉は、名古屋の自動織布工場で自動杼換装置付きの織機の試験運転を進めていたが、糸の品質や資金面で課題が多く、計画していた200台のうち自動織機付きはわずか8台にとどまった。この状況を打開するため、佐吉は特許権の一括譲渡を決断。1912年に豊田式織機株式会社との契約を再交渉し、将来の使用料を放棄する代わりに8万円の一括支払いを受けた。この資金で残りの織機を購入し、工場の規模を予定通りの200台に拡張した。織機の性能を最大限に引き出すには、高品質な糸が不可欠であることを痛感した佐吉は、自社で紡績を行うことを決意。1914年2月には6000錘のプラット・ブラザーズ製紡績設備を導入し、織布と紡績の一貫体制を築いた。
このように、豊田佐吉が自ら発明した自動織機(自働織機)の性能を正しく評価/実用化するため、当時の日本国内で供給される紡績糸の品質が低く(短繊維、ムラ、弱張力)、経糸に使うとすぐ切れて自動織機の試験が困難だったため、糸品質を安定させる目的で自前の紡績設備を導入/運営するために豊田自働紡織工場(豊田自動織布工場から改称)を設けた。
表2に、1914年(大正3年)時点の豊田自働紡織工場の設立に関する主要事項を整理して示す。
| 区分 | 項目 | 内容 |
|---|---|---|
| 設立目的 | 主目的 | 豊田佐吉が発明した自動織機の実用化/性能評価のため |
| 背景 | 当時市販の紡績糸は品質が不安定で、自動織機試験に不適だった | |
| 狙い | 高品質な経糸を自家生産し、織機研究/量産の基盤を確立 | |
| 所在地 | 当時の行政区分 | 愛知県愛知郡中村大字栄字米田 |
| 現在の地名 | 名古屋市西区則武新町/栄生(さこう)周辺 | |
| 敷地 | 約3000坪(借地) | |
| 資金/資本金 | 1914年時点 | 株式会社化前のため、登記上の資本金は存在しない |
| 資金調達 | 三井物産がプラット製設備の輸入/融資を担当 | |
| 参考(後年) | 1918年株式会社改組時の資本金:500万円 | |
| 経営陣/関係者 | 創業者/責任者 | 豊田佐吉(設立/技術/経営の中心) |
| 技術責任者 | 西川秋次(東京高等工業学校出身、工場建設/運営指揮) | |
| 商社側支援 | 藤野亀之助(三井物産支店長:設備輸入/融資) | |
| 備考 | 1914年時点では正式役員制は未整備(個人事業的運営) | |
| 工場設備 | 紡績設備 | プラット(英)製紡績機6000錘 |
| 稼働開始 | 1914年(大正3年)2月 | |
| 動力方式 | 蒸気機関による自家発電+電動機駆動 | |
| 補助設備 | 梳綿機、撚糸機、整経設備、織機試験設備 | |
| 特徴 | 紡績〜織布までを一体で行う研究兼生産工場 | |
| 表2 豊田自働紡織工場の設立主要事項一覧(1914年時点) | ||
豊田自働紡織工場の成立は、資本主導ではなく技術的要請に基づく工程拡張の結果であった。佐吉の自働織機研究を起点とし、紡績工程を内包することで問題を解決する手法は、日本の近代製造業における工程一貫思想の嚆矢(こうし)と評価できる。この構造は後の自動車産業へも継承され、トヨタ生産方式の思想的源流を形成した。
1915年(大正4年)、日本が中華民国の袁世凱(えん せいがい)政権に対し、第一次世界大戦の隙を突いて山東半島の旧ドイツ権益継承、満州と内蒙古での日本の権益拡大を目指し、対華21カ条を要求。第12回衆議院議員総選挙で与党が圧勝。選挙干渉などが起きる。第1回全国中等学校優勝野球大会開催。大正天皇即位の礼。第一次世界大戦による「大戦景気」による東京証券取引所で空前の出来高。
1915年は、豊田佐吉にとって技術開発と企業体制の再編が交差した重要な年であった。
1915年に佐吉の長女である愛子は、児玉一造※3)の弟である利三郎と結婚した。当時、児玉利三郎は主要な生綿取引会社である伊藤商事の支店長で、綿花の取引に精通した商社マンであった。豊田−児玉家の同盟は、綿と布という重要な原材料と製品市場において、繊維技術の能力とマーケティングの専門知識を結び付けた。
この同盟は豊田家内にも劇的な影響を及ぼした。佐吉が利三郎を養子に迎えたことで、利三郎は佐吉の長男となり、息子の喜一郎に代わって主要な相続人というだけでなく、事業継承の中心人物である豊田利三郎※4)となった。この利三郎の養子縁組は、自動織機発明の技術の才能は恵まれていたものの必ずしも企業経営を得意としていなかった佐吉にとって、商才に長けた利三郎を迎え入れることは、技術と商業の融合を図る戦略的な家族再編であり、佐吉が将来の新分野への展開を視野に入れていたことを示している。つまり、利三郎を豊田家に迎えたことが、後のトヨタ自動車につながる自動車への事業拡大を可能にする重要な要因になったと思われる。
※3)児玉一造(1881〜1930年)は、滋賀県犬上郡彦根町で生まれた明治/大正期の実業家。東洋綿花(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力。豊田佐吉の良き理解者、支援者。豊田紡織や三井物産の取締役、大阪市教化委員、資源審議会委員。
※4)豊田利三郎(1884〜1952年)は、滋賀県犬上郡彦根町で生まれた日本の実業家。豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織社長(第3代)、トヨタ自動車工業社長(初代)、豊田工機社長(初代)などを歴任。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻部卒業(商業学士)。当時、三井物産綿花事業部長で、後に東洋綿花の創業者、初代社長となる実兄の児玉一造が豊田佐吉の自動織機事業の理解者であったことから、1915年(大正4年)に豊田家の婿養子となる。1926年(大正15年)11月18日の豊田自動織機製作所設立に際し初代社長。1933年(昭和8年)愛知発明協会会長。1936年(昭和11年)10月23日には豊田佐助の後を受け豊田紡織社長も兼務。1937年(昭和12年)に同社自動車部が独立してトヨタ自動車工業が設立され、初代社長。1941年(昭和16年)1月に喜一郎に社長を譲って会長。同年豊田工機社長も兼務。
表3は、1915年(大正4年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は1件。
| 特許番号 | 発明者(特許権者) | 出願日 | 登録日 | 発明の名称(連載第7回の図2内の番号) |
|---|---|---|---|---|
| 28658 | 佐吉(本人) | 大正4.2.15 | 大正4.11.24 | 15.投杼桿受(緩衝装置) |
| 表3 1915年(大正4年)に豊田佐吉が出願した特許 | ||||
豊田佐吉は、1915年に「豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)」を発売する(図3)。
豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)は、従来の広幅/高速/高性能のL式やN式、そして後の自動織機G式とは異なり、小規模事業者でも使いやすいように簡便さと実用性を重視して設計された。特に、限られたスペースや資金で運用できる点が評価され、地域の伝統産業において重要な役割を果たしたといえよう。
豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)の構造と機構の技術的特徴を見ると、構造面では以下の3点が挙げられる。
一方、機構面の特徴としては、以下の3点が挙げられる
※5)巻取り(テイクアップ)装置(Take-up Mechanism)は、織り上がった布を巻き取る装置で、織物の密度や長さを一定に保つために使われる。その構造と機能としては、緯糸が織り込まれるたびに、織物が少しずつ前進する必要がある。テイクアップ装置は、筬(おさ)打ちのタイミングに合わせて布を巻き取り、織物の送り出しを制御。巻き取りの速度やテンションが適切でないと、織物がたるんだり、逆に引っ張られすぎて歪んだりする。自動織機では、織物の進行に応じて巻き取り量を自動調整する機構が組み込まれている。
他のN式やG式との比較では、以下の2点が異なっている。
その結果として、経糸張力の調整感度を向上して薄地織物まで高品質で効率良く織れるようにした。
豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)は、零細〜中小企業や、地域の伝統織物産業への自動織機の導入を推進し、布幅の狭い浴衣地などの着尺生地や浴衣、絣、手ぬぐい、ガーゼなどの薄地織物の生産に好評を得て広く使われた。力織機普及から繊維産業の産業化というように日本国内の織布業の裾野を発展させ、特に地域の産業基盤を支える役割に大きく貢献した。結果として、豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)は、その後の広幅/高能率の自動織機(T式、G式など)を実現するための「過渡期の重要な機械」であった。
1912〜1915年は、鉄製広幅/広布用力織機(豊田式鉄製広幅動力織機(N式)および鉄製小幅力織機(豊田式鉄製小幅動力織機(Y式))というように、佐吉の自動織機の発明と特許取得は非常に生産的な時期であった。最も重要なのは、佐吉が徒弟の育成とともに改良型送り出し装置の特許取得において顕著な進歩を遂げたことといえよう。しかし、豊田式織機の繊維事業がますます成功を収めるにつれて、自動織機の研究と実験は下火になる。
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