関東大震災を機に自動車に着目した佐吉と喜一郎、力を合わせ自動織機も完成形へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(11)(5/6 ページ)

» 2026年04月07日 08時00分 公開

7.新型の試作自動織機が完成

 1924年(大正13年)、日本国内に大きな反米感情を引き起こす「排日移民法」が米国連邦議会で成立。皇太子裕仁親王が久邇宮良子女王(のち香淳皇后)と成婚、良子女王は皇太子妃となる。第15回衆議院議員総選挙(護憲三派大勝、憲政会151議席、政友会105議席、革新倶楽部30議席、政友本党109議席、無所属69議席)、7月1日「改正度量衡法」が施行され、メートル法※9)実施。甲子園球場完成。婦人参政権獲得期成同盟会が結成。第二次護憲運動。1月東京市営バス(俗称円太郎バス)運行開始。1月、図4に示す白楊社「オートモ号」※10)が発売(1925年上海に輸出[国産自動車初])。12月、上述したように、米国のフォード・モーターが日本フォードの横浜工場を設立(1925年3月組立開始)。

図4 図4 白楊社の「オートモ号」[クリックで拡大] 出所:Wikipediaより、岡部家 - 『御料車と華族の愛車』、パブリック・ドメイン、ウィキメディア・コモンズ経由で

※9)1921年(大正10年)4月12日、「改正度量衡法」が公布(1924年7月1日施行)され、日本ではメートル法が基本になった。しかし、当時の日常生活では尺貫法(尺単位)が広く用いられ、製造業では英米の機械とともに導入されたヤード・ポンド法が主流を占めていた。豊田自動織機製作所が自動車を作り始めたころは、いろいろな分野の職人たちが転職してきたこともあり、使い慣れた尺貫法を勝手に用いていたといわれる。工場では「インチ」と「寸/分」が併用され、尺貫法の呼称を流用して、1インチを「1寸」、8分の1インチを「1分」、16分の1インチを「5厘」と呼ぶなど、寸法に関してはよく確かめる必要があった。寸法の単位をインチ単位からメートル単位に換えたことで、従来の部品はまったく使えなくなった。同時に、道具、工具、ゲージ類を全て交換し、全図面を描き直さなければならなかった。膨大な労力と費用がかかる一大事であったが、豊田喜一郎は、「自動車事業が何時迄も、吋(インチ)で進むことは国家として非常な損失であります。(中略)如何なる犠牲を払っても此の際之をメトリック(メートル)式にしなくては、将来の国民に対して申訳ない」と述べていた。

※10)オートモ号(おーともごう、Otomo)は、白楊社が1924年(大正13年)〜1928年(昭和3年)に製造/販売した空冷4気筒943cc/OHV(オーバーヘッドバルブ)のエンジンを搭載した自動車。「日本国外に輸出された日本車」の第1号。

 1924年(大正13年)7月、豊田佐吉はついに新型の試作自動織機を完成させた。

 詳細は次回で述べるが、この自動織機は、既存の普通織機(豊田式織機製)に、新設計の自動杼換装置(豊田紡織修繕工場製)を装着したものであった。この自動織機の試験は、1924年3〜5月ごろに、刈谷試験工場で200台を設置して行われた。20台の試験では1カ月に2〜3回程度の故障で済んだが、200台となるとその10倍以上の故障が発生し、とても実用に耐えるものではなかった。しかし、この大規模な試験によって、早期に欠陥を把握できたため、結果的に開発のスピードを上げられた。

 機械的な欠陥は解決したので、1924年5月中旬には自動杼換装置を組み込み、新たに設計し直した新型自動織機の試作に取り掛かった。鋳物部品の原型となる木型は6月にそろい、7月には新型自動織機の試作機が出来上がった。そして、試作機の試験運転を行い、さらに改良を加えた上で、11月に新型自動織機が最終的に完成した。

 しかし、豊田佐吉はそれまでの幾度かの苦い経験から「発明品の製作は他人の手に渡すことなく、発明者が自ら製作するのでなければ、その真価を発揮し得ない」との信念を持っていた。

 一方で、豊田式織機との間で生じていた自動織機の製作の時期や方法の問題、そして特許譲渡の問題の紛糾、という二重の制約に直面していた。

 佐吉の技術者としての信念は「設計と製造は不可分」という思想であり、これは後のトヨタ生産方式にも通じる「現地現物」の源流である。いつまでも営業試験を先に延ばすことはできないので、ついに意を決して、自らの手で1008台の自動織機を製作する。これは、今日でいう「パイロットライン」「試作量産」に相当する。

  • 完成した自動織機を実際の工場で稼働させ
  • 故障率、品質、保全性、操作性を検証し
  • 顧客(紡績会社)に性能を示す

という極めて重要な工程である。

図5 図5 日置工場[クリックで拡大] 出所:豊田自動織機

 この試作量産では、以前から織機の製作を依頼していた鉄工場主で佐吉と同郷の野末作蔵が日置町(現在の名古屋市中川区日置町)に有する日置工場(図5)を利用する。

 これは、佐吉と野末作蔵が同郷で信頼関係があった以外に、下記の理由が考えられる。


  • 工場は織機製作に必要な設備を備えていた
  • 豊田式織機(R)※11)に対して負債があり、協力関係を築きやすかった
  • 豊田織機は当時、本格製作を断っていたため、別ルートが必要だった
図6 図6 久保田長太郎[クリックで拡大] 出所:新東工業

 つまり、技術、信頼、政治的配慮が交差する「最適解」として日置工場が選ばれた。そこで佐吉は、利三郎や部下たちと相談の上で工場を借り受け、織機の製作に着手した。

 しかし、織機本体の大部分は鋳物製であるにもかかわらず、この工場には鋳物設備がなかった。このため、急ぎその設備や段取りを、かつて佐吉の下で紡織機鋳物を担当していた久保田長太郎(図6※12)に依頼した。当時、久保田は1923年(大正12年)に名古屋で久保田鋳造所を設立し、鋳物工場を自営していたが、長年の佐吉の薫陶と恩顧に報いるべく、自身の全力を傾け、鋳物設備を完成させた。

 さらに、自営工場の鋳物職人の半数を日置工場に送り込み、品質/原価ともに他に劣らぬ鋳物を製作した。詳細は後述するが、豊田佐吉は1926年(大正15年)に豊田自動織機製作所を設立する。その本社工場を刈谷に建設する際に、「久保田君が前に言っていた機械化した斬新な鋳物工場を作るから、存分に腕を振るってくれ」と、鋳物工場建設の一切を久保田長太郎に任せた。長太郎は佐吉の命を受けて、精魂を傾けてその実現に努力し、1927年(昭和2年)、刈谷に画期的な鋳物工場を完成させた。

※11)豊田式織機(R)に付く“(R)” は、英語の“Registered Trademark(登録商標)” を意味する記号で、「豊田式織機」という名称が正式に商標登録されていることを示す表記である。

※12)久保田長太郎(1882〜1964年)は、日本の鋳造技術の先駆者であり、トヨタ自動車の鋳造部門の立ち上げに尽力した伝説の技術者。大阪に生まれ、1923年に名古屋市西区児玉町に久保田鋳造所を創業。鋳造機械メーカーの、現・新東工業の創始者。14歳の時に鋳物工、日露戦争に従軍。1909年(明治42年)に豊田織機に入社。ここで、豊田佐吉に出会い、その鋳物工としての優れた腕を見込まれて引き立てられた。佐吉の意を体して、紡織機の鋳物部品の製造に腕を奮った。1913年(大正2年)には、同社鋳造部門の責任者。長太郎の話によれば、佐吉から鋳造技術に関する諸処の注意やヒントが与えられ、これに大いに奮起したという。1920年頃には、当時、手作業一本の鋳物工場の機械化について佐吉は長太郎に説いたという。久保田鋳造所の鋳物は、鋳肌(鋳物の表いはだ面)が美しく、他の鋳物工場ではまねのできない高品質のものであった。苦しい中にも名声を高めたのは、鋳物砂を処理するサンドブラストやタンブラーなど他に類例のない機械設備をもった鋳物工場であったからである。1934年には、久保田製作所を設立。世界初のジョルトスクィーズ造型機(W型)を開発し、後にトヨタ初のエンジンブロック鋳造に大きく貢献する。1960年、改名により新東工業を設立。

 この時、米国のオスボーンから豊田自動織機製作所に輸入されたモールディングマシン5台のうち、1台を久保田鋳造所が買い取った。それを分解/組立して研究を積み重ね、改良を加えて、1927年に国産初のC11型生型(なまかた、砂型のこと)造型機を完成した。鋳型を熟練工の技によらず、高速で生産する生型造型機(ジョルト・スクイーズ・モールディング・マシン)は鋳造工場機械化の核となる機械であった。

 豊田佐吉の自動織機事業に鋳物技術が導入されたのはこの時が初めてで、織機の核となす部品製作技術だけに、その意義は非常に大きい。

 豊田喜一郎をはじめとして、こうした新旧の恩人/部下たちの献身的努力の結晶として、自動織機第1号機が完成したのは1925年(大正14年)11月。

 その後、刈谷の新工場が完成するまでの約1年間、日置工場では合計1101台の自動織機が製作された。刈谷試験工場に510台、豊田紡績本社工場に518台などが据え付けられ、それぞれ良好な成績を収めた。この日置工場での織機製作こそが、豊田自動織機製作所の事実上の誕生であった。

 このように、鋳物技術導入、第一号機完成、1101台製作、各工場への設置、会社誕生という流れになる。

 表7に、1924年(大正13年)に豊田佐吉と喜一郎が出願した特許を示す。先述したように、喜一郎の協力や製造現場の品質管理や人材育成にも力を入れた成果として、この年は最多の特許13件を申請している。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2の番号)
60283 佐吉(本人) 大正13.5.18 大正13.3.29 14.杼(シャットル)緯糸引通装置
66012 佐吉(本人) 大正13.6.28 大正14.9.30 自動木管換装置
64601 佐吉(本人) 大正13.10.30 大正 14.7.6 9.杼換安全装置
61509 佐吉(本人) 大正13.6.20 大正 14.8.10 糸繰機・整経機用球入糸道装置
64513 佐吉(本人) 大正13.11.8 大正 14.6.29 6.たて糸切断自動停止装置
64798 佐吉(本人) 大正13.11.11 大正 14.4.7 17.杼押装置(スエル)
65156 豊田喜一郎 大正13.11.25 大正 14.8.10 1.杼換式自動織機、自動杼替装置
68677 豊田喜一郎 大正13.12.24 昭和元年6.23 5.経糸送出装置ウオーム歯車式たて糸送出装置(改良)
67066 豊田喜一郎、西川秋次(両人) 大正13.12.29 大正14.1. 6.ドロッパ探知機械式たて糸切断自動停止装置
68678 豊田喜一郎 大正13.12.24 昭和元年6.23 5.経糸張力調整装置
65171 佐吉(本人) 大正13.12.25 大正14.8.11 環状織機の綻絖装置
65262 佐吉(本人) 大正13.12.25 大正14.8.19 環状織機の杼推進装置
65711 佐吉(本人) 大正13.12.25 大正14.9.11 環状織機の織布巻取装置
表7 1924(大正13)年に豊田佐吉と喜一郎が出願した特許

 1924年(大正13)年は、佐吉が無停止杼換式豊田自動織機(G型)の完成に向けて心血を注いでいた時期である。特に、表7中の特許番号61509「糸繰機・整経機用球入糸道装置」の発明は、織機の前工程である「糸繰(いとくり)」※13)や「整経(せいけい)」※14)において、糸の張力を一定に保つための画期的な装置で、糸の通り道に小さな「球(ボール)」を配置し、その重みを利用して糸に均一な張力(テンション)をかける仕組みである。

※13)糸繰(いとくり)とは、染め上がった綛(かせ)状の糸や、繭(まゆ)/綿(わた)から引き出した糸を、糸枠やボビンに巻き取る織物/製糸の準備工程のこと。かつては手作業や糸繰車で行われた。西陣織などの絹織物生産において、その後の整経(糸を並べる)や横巻き(よこ糸の準備)をスムーズに進めるために不可欠な作業。

※14)整経(せいけい)とは、織物を織る前段階として、必要な長さ、幅、本数、密度のたて糸を均一な張力で並べ、円柱状のビームに巻き取る「織物の屋台骨」とも呼ばれる重要工程。この工程の精度が生地の品質や生産性に直結し、機械を用いた大量生産や手作業などで行われる。

 この発明は、本連載第9回の武藤山治のところで述べたように、織機本体だけでなく、その準備工程である糸巻や整経の段階から自動化/高品質化を追求していた佐吉の「一貫した品質管理」へのこだわりが伺える発明である。それまでの装置では糸の太さや速度によって張力が変動しやすく、糸切れの原因となっていたが、この「球入糸道装置」の導入により、糸を傷めることなく常に安定した張力で巻き取ることが可能となった。後の自動織機の高速運転や高品質な布地の生産を支える重要な基礎技術となった。

 豊田佐吉は、従来の自動織機とは全く異なる「環状織機の綜絖(そうこう)装置」「環状織機の杼推進装置」「環状織機の織布巻取装置」を発明し、翌年それぞれについて特許が与えられた。通常の織機は、杼(シャットル)が往復運動してよこ糸を入れるのに対し、環状織機は杼の円運動によってよこ糸を入れるため、エネルギー損失が少なく、作動による騒音の発生を低く抑えることができた。

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