関東大震災を機に自動車に着目した佐吉と喜一郎、力を合わせ自動織機も完成形へトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(11)(1/6 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第11回は、1922年(大正11年)〜1924年(大正13年)の日本の経済、政治の状況と合わせて豊田佐吉と喜一郎の歩みを見ていく。また、関東大震災を機に2人が着目した自動車の日本における市場拡大や、自動織機の完成形に向けた発明についても紹介する。

» 2026年04月07日 08時00分 公開

1.はじめに

 連載第4回から、トヨタ自動車の創業以前に時代を巻き戻し、自動力織機の発明によってトヨタ自動車創業に向けた礎を作り上げた豊田佐吉が活躍した時代の政治状況や織機技術の変遷、世界のクルマの発展などを紹介している。

 前回の連載第10回で取り上げた1915年(大正4年)〜1921年(大正10年)から、豊田佐吉の長男である豊田喜一郎(敬称略)の歩みを紹介している。今回は引き続き、1922年(大正11年)〜1924年(大正13年)の日本の経済、政治の状況と併せて、豊田喜一郎の歩みを見ていきたい。

⇒連載「トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革」バックナンバー

2.1922年(大正11年)〜1924年(大正13年)の日本の経済、政治の状況

 1921年(大正10年)〜1922年(大正11年)に米国でワシントン会議が開かれ、太平洋/東アジア地域で国際連盟に代わる集団安全保障(ワシントン)体制が確立された。日本の原敬内閣以降の歴代内閣は協調外交を進めるが、第一次世界大戦後の日本の不況は影が濃くなり、1923年(大正12年)の関東大震災が追い打ちをかける。経済の停滞色が強い中でも、1920年代には電力業をはじめとして諸産業が勃興した。

図1 図1 1922年(大正11年)〜1924年(大正13年)の日本の経済成長率の推移[クリックで拡大]

 1922年(大正11年)、ワシントン会議開催。四カ国条約(太平洋の現状維持と日英同盟破棄)、九カ国条約(中国の主権尊重、門戸開放)、そしてワシントン海軍軍縮条約(主力艦比率5:5:3:1.67:1.67)が締結され、国際協調によるワシントン体制と呼ばれる新たなアジア太平洋秩序が形成された。日本にとっては不利な内容で、後の対立の一因にもなった。山縣有朋、森鴎外が死去。大阪市、名古屋市、八幡市で官業労働者がデモ。ソビエト連邦が成立。コミンテルン日本支部として堺利彦、山川均が日本共産党結成。アインシュタイン来日。

 表1に、1922年(大正11年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は3件。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2の番号)
50891 佐吉(本人) 大正 11.7.13 大正11.12.18 7.杼替準備装置
50918 佐吉(本人) 大正 11.7.13 大正11.12.18 10.杼換式自動織機に於ける予備杼溜
50940 佐吉(本人) 大正 11.7.16 大正11.12.20 2.自動杼替用ウェフトフィーラ式よこ糸探り装置(織機用緯管さぐり装置)
表1 1922年(大正11年)に豊田佐吉が出願した特許

 1922年(大正11年)秋〜1923年(大正12年)春、世界の最先端の技術や産業動向を直接見ることを目的に、佐吉は欧米視察旅行に出掛けた。当時の欧米の産業機械と自動車の発展に大変感心し、日本とは比較にならないスピードで進んでいたことを目の当たりにした。

 佐吉は視察後、「これからはモータリゼーション(自動車社会)の時代が来る」と確信し、日本でも自動車産業を育成すべきだという考えを持つ。また、「佐吉は視察中にドイツ製電気自動車を購入した」※1)といわれているが、実際に購入したのは弟の豊田平吉で、1922〜23年に欧米視察した時である。佐吉は織機発明家であると同時に、蒸気機関、石油発動機、ガス発動機、電力利用など、動力技術そのものに深い関心を持つ技術者であった。

※1)ドイツ製電気自動車とは、プロトス・オートモービルが制作した「eプロトス」。モーターは当時のSiemens「Elektrische Viktoria」の進化版と考えられる。その主な仕様は、最高速度:30km/h(約19mph)(内燃機関車に劣る)、モーター出力:約3.5kW(約4.8馬力)、航続距離:60〜80km程度(バッテリー容量に依存)、バッテリー:88V系鉛蓄電池(当時の技術限界)、充電時間:数時間〜一晩(走行時間より充電に要する時間が長い)、実用性:短距離都市内利用、などとなっている。

 さらに、次回紹介する1925年(大正14年)で詳しく述べるが、佐吉は以下のようなことも行っている。

  • 帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金100万円を寄付。帝国発明協会との締結契約の内容は、5年間で蓄電池研究に50万円(現在価値で数十億円規模)の寄付
  • 帝国発明協会に「豊田研究室」を設置
  • 移動用蓄電池装置の発明を志す

 これらは、後に喜一郎が電気自動車試作へ進む伏線となった。

 平吉が欧州視察で電気自動車を購入した背景には、上述した佐吉の「電力/蓄電池/動力革新」への強い関心が影響していたと考えられる。

 さて、この電気自動車は、プロトス・オートモービル※2)で製作された。クルマの名前は「eプロトス」。シャシーはシーメンス・シュッカートヴェルケが製造し、モーターはシーメンス&ハルスケが製造。eプロトスは、ベルリンのヴィルヘルムスルーのベルクマン電気工場で開発/製造された。

※2)プロトス・オートモービル有限会社(Protos Automobile GmbH)は、1898年にドイツのベルリンでエンジニアのアルフレート・シュテルンベルクとオスカー・ハイマンによってモトーレンファブリック・プロトスとして設立され、自動車やトラック、ワールドラリー用のレーシングカー、そして市営用の電気トラック、バスを製造していた。1908年には、当時世界最長のカーレース(ニューヨークからパリまで開催)に出場し完走した。1906年、本社をシェーネベルクのグロースゲルシェン通り39番地からベルリン・ライニッケンドルフに移転。1908年、シーメンス・シュッカート工場がプロトスを完全買収し、会社をノンネンダムに移転させ、プロトス・オートモビルヴェルク・ノンネンダム有限会社になった。1911年に社名がプロトス・オートモービル有限会社に変更された。プロトスはまた、電気自動車も開発し、その一部はベルリン・ヴィルヘルムスルーのベルクマン電気工場で製造された。1926年にAEGに売却され、AEGはプロトスとNAG(AEGの子会社)を合併させた。NAG-プロトスAEGは1927年までわずか2年間存続した。その後、NAGがデュクス・プレスト工場を引き継ぎ、プロトスの名前は消滅した。

 当時の日本のエネルギー供給は貧弱で、自家発電による電力を動力源としていた。つまり、外部の電力網が未発達だった時代に、自前の発電機で充電して走らせる方法を採っていた。

 自家発電設備を持つ豊田自動紡織工場で充電し、息子の喜一郎もその電気自動車を利用した。しかし、当時の蓄電池(バッテリー)の性能は、一晩充電しても走行できる時間は限られ、走るよりも充電している時間の方がはるかに長いというように、極めて実用性が低かった。このことは、豊田喜一郎の取り組みにも影響を与えており、1939年に豊田喜一郎は以下のことを行った。

  • 蓄電池研究所を設立
  • 電気自動車の試作に成功

 この結果として豊田喜一郎は、新しいモビリティへの興味と、自動車産業への方向性(電気ではなくガソリン駆動の自動車の開発)を決定させたといえる。

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