さらに豊田佐吉は1908年(明治41年)、「豊田式鉄製小幅普通織機(K式)」(図16)と「豊田式鉄製広幅普通織機H式」(図17)を完成させる。先述した菊井町の織布工場は、これら最新の織機30台が据え付けられた。
豊田式鉄製小幅動力織機(K式)は、織布業の大規模工業化を実現するべく一層堅ろうで能率の高い織機を作るため、率先してその鉄製化を図るため開発された。この織機は、日本で最初に鉄製の織機を創案した豊田佐吉が完成させた全鉄製の堅牢な自動織機である。日本国内では213台販売された。
織機が小幅から広幅になると、それまでの木鉄混製は強度面で耐えられない。とくに筬打ちの衝撃は極めて大きいため、フレームは木製から鉄製にすることが必須であった。広幅鉄製織機を日本で初めて製作に成功したのは豊田式織機であり、それが1908年(明治41年)完成の豊田式鉄製広幅普通織機H式である。
1908年(明治41年)10月、三重紡績の織布技師長、真野愛三郎が豊田織布菊井工場(豊田式織機の試験工場)で広幅鉄製機の運転状況を視祭した。真野はその成績が優秀なのに驚き、三重紡績の技師全員に工場を見学させた。
まず試験的に2台、続いて100台を購入してプラット・ブラザーズ製織機と性能比較試験を行ったところ成績が良く、全く遜色がなかったため三重紡績に大量採用されることになった。これが、国産広幅鉄製織機が紡績業と織布業を兼ねる兼営織布会社に採用された最初の事例であり、この時点をもって一応、国産動力織機が輸入織機とほぼ同程度の技術水準に到達したものといってよいだろう。
佐吉は、織機の幅が大きくなることによる振動の増加に耐えるために剛性の強い鉄製の金属で作られなければならないことを認識していた。実用的な広幅動力織機の製造に関するこれまでの試みは全て失敗しており、主に日本の機械加工能力が正確な部品を生産するのに不十分なことが要因だった。この織機の広幅鉄製化を進めるためには、より近代的な工作と加工の技術、大量生産システムが求められた。
1907年の豊田式織機の第一回総会で、同社社長の谷口は次のように説明した。
「現在、われわれはこの織機を完全に製造するための十分な設備を持っていないことは非常に残念である……名古屋布会社に設置された鉄フレームの小幅織機は豊田式織機によって提供されたが、われわれの島崎工場は未完成であるため大阪の木本鉄工所で製造されたが、製造の失敗から悪い結果が生じている。この失敗や事故の結果、豊田式織機とその関連特許装置は不要な段階に達した。名古屋布会社だけでなく、豊田式織機の鉄フレーム織機を使用している他の会社でも、結果は均一に悪い。木本鉄工所の問題は、他国の鉄動力織機の製造業者や日本の他の機械製造業者の間でも珍しいことではなかった。木本鉄工所は、互換性のある部品の製造には従事していなかった。製造プロセスで使用される機械はほとんど同じものがなかった。大規模な操作では、織機は避けられず故障した。互換性がなければ、壊れた部品ごとに特別に新しい部品を作る必要があった」
佐吉の解決策と改善の探求は、彼が東京高等技術学校(後の東京工業大学)で機械工学を教えていた米国人教師チャールズ・A・フランシスを雇うことにつながった。
フランシスはプラット・アンド・ホイットニーでエンジニアとしても働いていた。1905年(明治38年)〜1907年(明治40年)、フランシスは日本の主要な工作機械会社である池貝鉄工所で指導を行った。指導内容には「機械製造の基本技術を労働者に訓練」「指示器やゲージの使用、高精度のギアやネジの切削、主軸の調整」などが含まれていた。フランシスは標準モデルのバッチ生産も導入した。彼はエンジニアに「治具や取付具(fixtures)の設計、製造ラインの設備の配置」について教え、マネジャーに購入を検討すべき重要で高品質な工作機械について助言した。しかし、池貝鉄工所は再編成の完全な計画を実施するためのリソースが不足しており、半年を待たずにフランシスは解雇された。
そこで1907年(明治40年)にフランシスを雇ったのが佐吉である。まず、木本鉄工所における豊田式織機の製造の困難な問題に直面したフランシスは、工具を再設計し、標準化された仕様を開発し、ゲージを徹底的に標準化し、工場の全体計画を策定した。豊田式織機の経営陣は、佐吉がフランシスに約束した全額の給料を支払うのに難色を示したが、佐吉はフランシスの給料の半分を自身の主任技術者および常務取締役の給料から差し引いて支払うように指示した。このようにして、フランシスの設計による工具の完備と規格統一の重要性を徹底させた。
その上でフランシスは木本鉄工所の製造問題に取り組む前に、旋盤や生産に必要な他の工具を製造する工作機械製造工場の設計と建設を指導した。池貝鉄工所によって設置された単一の工具を除いて、工場に設置された全ての機械は英国、米国、ドイツから輸入された最新の鉄製機械であった。これらの設備を使って、工場で織機生産に必要な約300のゲージを製造した。
こうして豊田式織機は自社の工具工場を持つことで、標準のシステムを確立し互換部品の製造を開始できた。労働者は新しい労働分業に従って訓練され、熟練した金属労働者が自分の工具を作り、所有し、使用するという職人組織の製造は終わった。新しい技術能力を確立することへのコミットメントは、株主への配当を支払わないという決定に反映されていた。
当時の池貝鉄工所の中村精一は次のように語っている。
「其の当時豊田式織機の豊田さんは腹の大きい人で、フランシス氏の思ふ通り工場の計画をさせたので、私の知っている範囲では、日本で一番初に豊田が大量生産のシステムを採ったと思ひます」
なお、木本鉄工所から鈴政式織機(後の遠州織機)に入社して鉄製織機化を進めた阪本久五郎は、技師長就任の1年目において、手始めに広幅織機用の治工具の整備や金型の製作に取り掛かった。
佐吉の弟の佐助は新しい布工場の試験所を管理していたが、互換性を達成するために新しい高品質基準が必要としていた。当初、鉄製本体の製造作業を木本鉄工所に下請けしていたが、1908年に新しい鋳造所が設立された。この鋳造所で、新しい品質基準を満たし、かつ数量の生産目標を達成するために、作業者などと管理責任者の間で対立が生じたが、豊田式織機の会社内のチームワークを良くすることで早期に目的とする部品相互の互換性を達成した。これによって、他の金属加工業の会社では実践できないような技術者と作業者のチームワーク能力が育成された。この変化により、豊田式織機は1908〜1910年に作業者の能力を引き出し、工場の生産量を倍増させることができた。(次回に続く)
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。
トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。
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