技術開発に専念した豊田佐吉の発明の数々、ついに英米の織機技術に肩を並べるトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(8)(3/6 ページ)

» 2025年08月19日 08時00分 公開

4.豊田式織機株式会社の設立

 1906年(明治39年)、日本政府は鉄道国有法を公布し、南満洲鉄道を設立。英国のロールス・ロイス※9)が設立された。図5は、1906年11月のロンドン・オリンピア・ショーでデビューした新しい直列6気筒モデルのロールス・ロイス40/50HPシルバーゴーストである。また、グランプリレース「ル・マン」がフランスで初めて開催された。

図5 図5 1906年発表の「ロールス・ロイス40/50HPシルバーゴースト」[クリックで拡大] 出所:GAZOO

※9)ロールス・ロイス・リミテッド(Rolls-Royce Limited)は、チャールズ・ロールズ(Charles Stewart Rolls、1877〜1910年)とフレデリック・ヘンリー・ロイス(Sir Frederick Henry Royce, 1st Baronet of Seaton、1863〜1933年)が共同で1906年3月15日に設立した、乗用自動車メーカー。1914年に最初の航空機用エンジンを製作。1931年に英国のスポーツカーメーカーであるベントレーを買収するなど規模を拡大し、特に乗用車製造においては高級車の代名詞となった。図13の車名「40/50HP」は、当時の英国の法律による「課税馬力」40HP級と、実馬力50HPを併記したもの。エンジンは新型のサイドバルブ式、6気筒、7036ccエンジン、バルブ駆動系回りには消音対策を施し、クランクシャフトのメインベアリングは7ベアリング(現代の直列6気筒同様)でトーショナルダンバーを装備し、クランクシャフトには全圧力潤滑が備えられ、中央のメインベアリングは振動を除去するために特に大きく作られた。基本的にエンジンは従来の6気筒トリプル2気筒ユニットとは対照的に、各3気筒のユニットを2つ鋳造して、2つの3気筒ユニットに分割されていた。2つのスパークプラグをシリンダーごとに装着。出力は1250rpmで48bhp(36kW)。出力より低速トルクと耐久性を重視し圧縮比は3.2と当時としても極めて低かった。完全スクエアの内径×行程φ4.5インチ(114.3mm)×4.5インチ(114.3mm)で排気量7036cc。クランクシャフトは鍛造スチール製ワンピースで総ポリッシュ仕上げがされていた。3速トランスミッションはエンジンとは分離され前席の下にあって短いシャフトでエンジンと接続。高速巡航を考慮し従来の3速直結型にオーバードライブを加え、当時としては多段の4速MT。シンクロナイザー実用化以前の変速機であるが、入念にギアが磨かれていたため、タイミングさえ合わせればギアはローでも無音で入ったという。ファイナルドライブのギアは、従来のベベルギアをスパイラルベベルギアに変更し、さらに滑らかな走行が可能。点火系はバッテリーコイルをメイン、マグネトーがサブの二重系統。シャシーはテーパーボルトを使って頑丈に組み立てられ、ほとんど緩みがなく、前後の車軸が固定されており、全周に板バネが取付けられた。初期の車は後輪のブレーキが手動レバーで操作され、ペダルで操作するトランスミッションブレーキがプロペラシャフトに作用していた。

 当時の日本の綿紡績業界は、過剰な生産設備の影響から中小紡績会社の合併、統合が進んでいた。紡績会社数は1900年(明治33年)の79社から、1908年(明治41年)には36社に半減している。さらに、大日本紡績連合会の統制の下で操業短縮が実施されるような状況であった。一方で、付加価値の高い綿布に加工して輸出を促進し、過剰綿糸を削減する方策が立てられた。これを実現するには、織布を効率的に生産できる動力織機の普及が不可欠であった。

 1906年(明治39年)の日本の織機設置台数を調べると、手織機が71万6171台、小幅力織機(小幅動力織機)が2万657台、紡績会社が兼営する織布部門の広幅織機が9601台。これに対して機業家数は46万3165戸を数え、ほとんどが手織機による零細な機織(はたおり)業であった。

 こうした状況下で動力織機メーカーの豊田商会が注目された。しかし、個人事業の豊田商会は資金力に限界があり、織機の供給能力を高めるには、株式会社に改組して事業を拡大する必要があった。

 豊田佐吉は、1906年(明治39年)1月に島崎町工場を完成し、武平町工場からの機能移転を完了。島崎町工場の織布試験工場では、小幅動力織機120台を営業用に運転した。既に武平町工場で80台、西新町工場で100台が稼働していたので、織機の運転台数は合計300台となった。その結果、織布部門の収益も大幅に増加し、業績は好調に推移した。

 評価を高めた豊田商会の小幅織機に注目した三井物産 大阪支店 支店長の藤野亀之助は、織機の生産能力を増強するため、同年5月に豊田商会を株式会社に改組することを提案する。

 同年12月に、資本金100万円、出資比率5%の最大株主は三井物産合名会社 社長の三井八郎次郎と豊田佐吉、大阪/三重/名古屋の綿業関係者(谷口房蔵:大阪合同紡績の社長、田中市太郎と志方勢七:日本綿花の社長、山辺丈夫:大阪紡績の社長、藤本清兵衛:岸和田紡績の社長、岡谷惣助:名古屋紡績の社長、伊藤伝七と斎藤恒三:三重紡績の社長)をはじめ143人の出資と経営参加によって、豊田式織機株式会社(現在の豊和工業)を設立。佐吉の経営権はかなり希薄化した。取締役社長には谷口房蔵が就任した。

 操業開始は1907年(明治40年)3月で、当初の製造品は、豊田式38年式織機、その改良型である「豊田式39年式織機」、狭く薄い織りの綿とジュート生地用の“簡略化された”軽便式の小幅織機(軽板)であった。佐吉は常務取締役 技師長として、鉄製広幅織機の開発製造への取り組みを開始し、技術開発に注力する。

 販売台数は、豊田式38年式織機が947台、豊田式39年式織機が2307台、軽便式の小幅織機(軽板)が4201台。豊田式織機は、国内の競合他社よりも多くの動力織機を販売することにより小幅布動力織機市場分野で支配的な地位を早期に確立し、小規模および中規模の布工場にサービスを提供しながら国内市場に展開した。その主導的地位は佐吉の製造方法の先駆的な改善によって生まれた、と言っていいだろう。

 そして豊田式織機と佐吉は、広幅織物の生産と支配的な外国織機供給者に挑戦すべく、輸出市場向けの広幅布を生産する統合工場に適した広幅織機の開発に取り組むことになる。

 表1に、1906年(明治39年)に豊田佐吉が申請した4件の特許を示す。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の表2と対応)
11056 佐吉(本人) 明治39.8.27 明治39.10.3 15.投杼桿受
11094 佐吉(本人) 明治39.8.27 明治39.10.10 経糸解除及緊張装置(5.経糸送出装置)
12059 佐吉(本人) 明治39.12.31 明治40.5.1 1.自動杼換装置
12169 佐吉(本人) 明治39.4.28 明治40.5.28 環状織機
表1 1906年(明治39年)に豊田佐吉が申請した特許

5.注文が殺到した「豊田式39年式織機」

 1906年(明治39年)は、前年の豊田式38年式織機をさらに改良した豊田式39年式織機(豊田式39年式木鉄混製動力織機B式)を発売した(図6)。

 豊田式39年式織機では、厚地物も織れるように経糸送出装置、緯糸切断自働停止装置などの発明や改良を加え、さらに重要な部分に鉄を用いて堅ろうにして、汎用性と能率の向上を図っている。その上安価でもあったので注文が殺到した。特に、異常が発生した場合に織機を自動停止して、品質不良や手直しによる損失などを防ぐ発想が特筆すべき点であろう。繰り返しになるが、豊田佐吉の設計思想は「自働化」を起源としており、その思想は現在のトヨタ生産方式に生かされている。

図6 図6 1906年発売の「豊田式39年式織機」(左)とその複製展示機(右)[クリックで拡大] 出所:トヨタ自動車、トヨタ産業技術記念館

 佐吉は、紡績と織布兼営による「理想的な工場づくり」を考えていた。

 1906年発売の豊田式39年式織機の完成に向けては、大量生産のための「モノづくり=自動織機づくり(将来はトヨタのクルマづくりに通ずる)」において、従来とは全く異なる高いレベルの工作技術や鋳物技術が要求された。これまでに要求されてきた自動織機という製品自体の抜本的な見直しが必要であり、機械の剛性、精度、耐久性、使いやすさなど多くの点で問題があった。

 そこで佐吉はまず「製作技術の基礎を確立する方針」を考えた。

 そのために、豊田商会の創業時から高給を以て卓越した技術者を雇用し、内地製品では池貝鉄工所製の機械を採用し、その他は全て英米ドイツなどの最新鉄工機械を備えることとした。多大な資本を投入して織機の製作部分の約300種に及ぶゲージを作り、専門的な分業法を用いて職工を訓練し、機械製作技術の練習に全力を注いだ。

 2人の工学大学卒業生(工学士)として土屋富五郎(工学士、その後は企業の支配人兼技師長)、関盛治(工学士、その後は米沢高等工業学校教授)、2人の高等専門学校卒業生(高等工業)および7〜8人の技術高校卒業生を雇い、次に職員一同で心を合わせてあまたの技師職工を訓練させた。

 そして、工場組織の改革、機械の改良、設備の刷新などに全力を注いで、国内のどの機械製造所でも採用していなかった「ゲージシステム」を採用した。例えば、リミットゲージを採用し、各部品の加工精度を高めるのと合わせて互換性を持たせ、能率を上げることを目的にこの着想を進めた。

 佐吉のこのような高学歴従業員の採用は小規模な個人事業では非常に例外的だった。しかしこのことが結実した佐吉の自動織機(動力織機)の成功は、1906年には明らかになっていた。

佐吉の独創的アイデア「環状織機」、押上式自動杼換装置の改良型も発明

図7 図7 1924年(大正13年)の環状織機(木製フレーム)[クリックで拡大] 出所:トヨタ自動車

 ここで、佐吉の常人では考えも及ばない、まさに独創的なアイデアである「環状織機」に触れておく。

 表1に示したように、1906年(明治39)年に「環状織機」を発明し同年4月28日に特許申請をした。その1カ月後の5月28日に特許12169号を取得できているのは、斬新な特許だったことを示す証拠である。これは、豊田佐吉が発明の究極目的として心血を注いだもので、シャットルを円運動させるという前人未到の極めて理想的な織機である。翌1907年(明治40年)にも環状織機に関連する特許を取得している。

 ちなみに、図7に示すように1924年(大正13年)には「環状織機の綜絖装置」「環状織機の杼推進装置」「環状織機の織布巻取装置」を発明しており、翌年にはそれぞれの特許を取得した。通常の織機は、杼が往復運動して緯糸を入れるのに対し、環状織機は杼の円運動によって緯糸を入れるため、エネルギー損失が少なく、作動による騒音の発生を低く抑えることができた。詳細は本連載で後日紹介する予定である。

 また、佐吉は1906年(明治39年)、特許12059号として「押上式自動杼換装置(改良型)」を発明し翌年に特許取得する。

 押上式自動杼換装置は、緯糸が無くなる寸前に、杼をバネで積極的に押し上げて自動的に交換する装置である。図8に、この押上式自動杼換装置の機構および作動内容の概要を示す。

図8 図8 改良型押上式自動杼換装置(1906年)の概要[クリックで拡大] 出所:トヨタ自動車、トヨタ産業技術記念館

 前回の連載第7回で紹介した、1903年に発明した押上式自動杼換装置の基本型は、予備杼の保持ブレーキを解除してバネのカで押し上げる機構だった。1906年発明の押上式自動杼換装置の改良型では、図8に示すように、予備杼をリンク機構により積極的に押し上げる機構にし、さらに緯糸探知方法も改良することで信頼性を大幅に高めた。

 図8(a)は、後述する1907年(明治40年)に発売した豊田式鉄製自動織機(T式)に装着された改良型押上式自動杼換装置である。

 この改良型押上式自動杼換装置の仕組みを理解するために、まずは図8(b)に示す緯糸の有/無を探知する機能と図8(c)に示す杼換誘導機構を見てみよう。

 緯糸が有る場合、レース(1)前進時、緯糸(10)によりウェブトフォーク(2)が跳ね上げられ、ウェブトフォークフィーラ(3)の回動を妨げない。プッシュプレート(5)の先端は下がり、プッシュレバー(6)の切り欠きの中を通過する。

 緯糸が無くなると、ウェブトフォーク(2)がウェブトフォークフィーラ(3)の回動を防止する。押上げカム(4)により往復連動をしているプッシュプレート(5)の先端は下がらずプッシュレバー(6)に衝突し、軸(11)を回転させ杼換装置を作動させる。

 次に、図8(d)に示す自動杼換装置の押上機構を見てみよう。

 I)では、軸(11)で伝えられた動きで、杼換装置の押上片(7)を押し上げ、その上の予備杼(14)はボトムプレート(9)を押し広げながら上昇し、緯糸を使いきった旧杼(13)と交換される。旧杼(13)はその上方に押し上げられる。

 II)では、杼箱の後退によって、旧杼(13)は織機前方にかき落とされる。ボトムプレート(9)は予備杼(新杼)(11)の下で閉じる。さらに、全ての予備杼はバネカで一杼分上昇する。

 III)では、押上片(7)が下降して、その先端を次の予備杼(12)の下に入れる。

 図8(e)は、トヨタ産業技術記念館にある「改良型押上式自動杼換装置」の緯糸の手動模型である。繰り返すが、この「改良型押上式自動杼換装置」は翌年の1907年(明治40年)に製作される豊田式鉄製自動織機(T式)に装着される。

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