1907年(明治40年)、小学校令改正(尋常小学校6年制に)。第2回ハーグ万国平和会議が開催され、その会議中にハーグ密使事件※10)が起こる。第三次日韓協約調印。第一次日露協約調印。日露戦後経営の基軸として日本の陸軍と海軍の軍備拡張費が大幅に拡大(1907〜1912年の累計で6億円超)。これによって、軍備関係の重工業メーカー、特に造船、機械や官営企業は特需となり景気が良くなった。
日本車初のガソリン自動車「タクリー号」※11)が吉田真太郎と内山駒之助の2人によって約10台製作される。同年3月、発動機製造株式会社(現在のダイハツ工業)※12)が設立。
※10)ハーグ密使事件は、1907年に韓国の李太王(高宗)が、オランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を派遣し、日本による侵略の真相を訴えようとしたが、失敗した事件。この事件は、逆に日本による朝鮮半島の植民地化を推進する口実となった。
※11)タクリー号は、1907年に吉田真太郎と内山駒之助の2人が開発した国産初のガソリン自動車。エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力。最高速度は時速16kmで、ガタクリガタクリとのどかに走ったことから、タクリー号という愛称が付けられた。1号車は有栖川宮家に納入され、その後計10台が製作された。翌年にはフォードがT型の生産を開始。日本で自動車製造の方法を模索していたが、米国では既に大量生産の時代に入っていた。日本には金属や電気機器、さらにはガラスやタイヤなどの基礎的な産業/工業力が育っておらず、日米の技術力と製造産業力の格差は天と地ほどであった。
※12)発動機製造株式会社(現在のダイハツ工業)は、1907年(明治40年)、内燃機関の国産化を目指して、大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の研究者を中心に設立された。同年、日本で最初の国産エンジン「6馬力 吸入ガス発動機」を発明。当初は工場などの定置動力用として用いられるガス燃料の内燃機関(ガス発動機)や鉄道車両用機器の製造を手掛けた。当時の大阪高等工業学校の校長である安永義章博士、機械科長である鶴見正四郎ら、実業家の岡實康、桑原政、竹内善次郎らが設立に関わった。大阪の「大」と発動機の「発」をとって「ダイハツ」と略称された。1919年に純国産エンジンで軍用自動車を試作。1930年に自社製小型4サイクル空冷単気筒サイドバルブ(SV)のガソリンエンジンを搭載した試作型オート三輪「ダイハツ號(号)HA型」の開発で本格的に自動車業界に参入。1951年12月に「発動機製造」から「ダイハツ工業」に社名を変更。1957年にミゼットで国内や東南アジアで大ヒットを記録し、1972年まで東洋工業(現在のマツダ)とともにオート三輪業界の覇権を争った。
表2に、1907年(明治40年)に豊田佐吉が申請した特許を示す。この年は1件のみ。
特許番号 | 発明者(特許権者) | 出願日 | 登録日 | 発明の名称(連載第7回の表2と対応) |
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12125 | 佐吉(豊田式) | 明治40.5.6 | 明治40.5.16 | 21.豊田式綻絖 |
表2 1907(明治40年)に豊田佐吉が申請した特許 |
豊田佐吉が1897〜1906年の10年間で申請した特許件数は合計13件だった。しかし、豊田式織機の常務取締役を務めた3年余りの期間は技術開発に専念できたこともあり、1907〜1910年の4年間に申請した特許件数は合計16件となった。1年平均の件数で比較すると、1.3件から4件へと3倍に増加している。
併せて佐吉は、豊田式39年式織機(1906年開発、木鉄混製小幅動力織機)、軽便型鉄木混製小幅織機B式(1906年開発、木鉄混製小幅動力織機)、鉄製小幅自動織機(1906年改良発明、押上杼替式自動織機)、木鉄混製小幅縞織機A式(1907年開発)、鉄製小幅普通織機K式(1908年5月完成)、鉄製広幅普通織機H式(1908年11月完成、H式)などについて開発や改良を行い、各種試験を行った上で発売している。
豊田商会時代の織布試験工場は豊田式織機の設立と同時に廃止され、1907年2月に鉄製小幅織機の試験工場として名古屋織布株式会社が設立された。しかし、満足な織機の試験ができなかったので、社長の谷口ら経営者側の反対を押し切り、名古屋市西区西藪下町(現在の西区菊井1丁目)に個人的な試験工場(豊田織布菊井工場)を設置した。
そして1907年(明治40年)、豊田佐吉は図10に示す豊田式軽便織機を製作/発売する。
特許関係では、「豊田式綻絖装置」(第12125号)を1907年(明治40年)5月6日に申請し同月16日に取得した。驚くことに、申請してからわずか10日で取得している。いかに、豊田佐吉の申請内容がいかに独創的であったのかが伺えよう。
図10の豊田式軽便小幅織機は、織機の普及を目的に経糸停止装置を省略して機能を簡素化した木製鉄製混合の低廉な製品である。能率が良い上に、価格が豊田式39年式織機の半額程度であったため好評を博し、累計で4731台販売された。同時期に、布幅の広い豊田式軽便広幅織機も製作され180台を販売した。
図11に、1907年発売の鉄製自動織機である豊田式鉄製自動織機(T式)を示す。前ページの図8で説明した1906年発明の改良型押上杼換式装置を備えた鉄製自動織機である。
図12に、1907年に製作された豊田式鉄製自動織機(T式)と改良型押上式自動杼換装置を示す。
基本型である、前回の連載第7回で解説した1903年発明の押上式自動杼換装置は、予備杼の保持ブレーキを解除してバネの力で押し上げる機構であった。改良型では、予備杼をリンク機構によって積極的に押し上げる機構になっており、さらに緯糸探知方法も改良して信頼性が向上している。
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