余談であるが、図13は1903年(明治36年)からの、豊田佐吉が発明した自動織機の特許の流れである。1903年の「自動杼替装置特許番号6787号の取得」が、豊田佐吉の発明の中でも最重要かつ基点となるものであるように思われる。
豊田佐吉による自動織機の基本的なアイデアは、特許番号6787号を起点に、以下のような4つの大きな流れに分類できる。
図12を見ると、自動織機の実用化は、極めて長い年月と細部における多数の改良の積み重ねがあって初めて可能となったことが分かる。この積み重ねは、現在も脈々と続いているトヨタ自動車が進めする「改善」の積み重ねそのものである。これが連載第1回に述べた「モノづくりの原点」である。
注目すべきは、日本における自動織機の最初の試みがかなり早い時期、1903年に行われているという事実である。つまり、1903年は日本に力織機化がようやく進行しつつある初期時点でありにもかかわらず、既に自動織機が発明されていたのである。この独創性には非常に高い評価が与えられる。
1904年(明治37年)、日清戦争から10年後に「日露戦争」が起こり、大量の軍用綿布の需要が生じる。辛うじて日本勝利。第9回衆議院議員総選挙。日本初の国産車1号が登場した(図14)。※17)
※17)1904年(明治37年)、山羽虎夫(やまばとらお)が、日本車第1号となる「山羽式蒸気自動車」を製作。翌年「揮発油瓦斯機関」で特許(第9286号)を取得。全長約4.5m、全幅約1.3m。1本のハンドル、駆動はチェーンドライブ式、タイヤはソリッドタイヤ(総ゴムのタイヤ)、定員10人乗りで、ガソリンバーナーで沸かした蒸気を動力源とする。山羽虎夫(1874〜1957年)は岡山県で生まれた電気技師、発明者。1895年(明治28年)、岡山市天瀬可真町で山羽電機工場を設立した。
豊田佐吉は同年、新たに織機に関する特許第7433号(「自動杼換装置」「緯糸探り装置(フィーラ)」「緯糸切断自動停止装置(フォーク)」)、第7676号「経糸切断自動停止装置」、そして表2に記載のない第8320号を取得した。(次回に続く)
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。
トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。
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