大量生産品であれば中国など海外の製造拠点を使う。最先端の製品でなければ、このような取り組みが一般的だろう。日立アプライアンスは白物家電や環境家電でこれとは全く逆の方針を採っている。茨城県の多賀工場で生産し、さらに1個ずつ手作業で作っている。なぜだろうか。どうしたらこのようなことが可能になるのだろうか。小寺信良が報告する。
日本には総合家電メーカーが数多く、各社がしのぎを削ることで長らく世界の家電市場を賑わしてきた。しかし長引く不況に加えて、大災害の影響も次第に色濃くなり、特定分野の撤退、得意分野へのリソース集中といった動きが加速してきている。競合からすみ分けへと転換していく、時代の流れを感じざるを得ない。
日立製作所も、全グループを合わせるとあらゆるモノづくりをカバーする巨大企業である。筆者の得意なAV機器部門で見れば、レコーダーやビデオカメラといった分野で撤退の傾向が見られる。しかし、その一方で、白物家電においては高級ブランドの地位を築きつつあり、冷蔵庫や洗濯機、掃除機といった分野で市場から高い評価を得ている。
今回は、古くから白物家電の大半を製造し続けてきた、日立アプライアンスの多賀事業所(茨城県日立市)を見学する機会を得た。常磐線常陸多賀駅の真ん前という恵まれた立地にあり、広さは東京ドームの7.5倍という敷地面積を持つ多賀事業所は、1939年、昭和14年という早い時期に、電気製品の量産工場として設立された。第二次世界大戦突入の年に設立ということからも、まさに日本の家電の歴史とともに現在に至る工場である。
当初は発電機などを受注生産する工場であったが、戦後間もない1947年には、日本独自のアイデアによる洗濯機を試作、1952年に一般発売して成功した(図1)。日本で初めて洗濯機を製造したのは東芝であったが、これは米国で開発・設計された撹拌(かくはん)式であった。この経験から日立製作所のモノづくりでは、「作れるものは全部自分たちで作る」というポリシーが貫かれることとなった。
この場所からさまざまな事業が巣立っていった。少し時代がさかのぼるが、1944年には、好評だった冷蔵庫部門を拡充するため、栃木工場を設立して分離、さらに1952年には変圧器製造部門を国分工場として、多賀のすぐ北のエリアに分離した。モーター用の絶縁材料まで自社で製造していたが、1963年にはその分野を日立化成に分離するなど、多くの事業所の産みの親である。
多賀事業所を運営する日立アプライアンスは、家電全般を扱っていた日立ホーム&ライフソリューションと、静岡にあった日立空調システムが合併して2006年に設立された、比較的新しい組織だ。多賀事業所では白物家電と環境関連製品を製造している。白物では洗濯機や乾燥機、掃除機、電子レンジ、ジャー炊飯器などを、環境分野としてはIHクッキングヒーター、太陽光発電システム、LED照明などを製造する。
今回は白物家電として、洗濯機と掃除機の他、電子レンジを、環境家電としてIHクッキングヒーター、LED照明、太陽光発電システムの製造現場を見学させていただいた。
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