マラソンと水泳から学べる流体力学踊る解析最前線(15)(3/3 ページ)

» 2012年01月25日 12時30分 公開
[小林由美MONOist]
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スッポン泳法は、疲れる泳ぎ方?

 従来泳法とスッポン泳法を比較すると、後者の推進力が11%ほど高いと伊藤氏は説明した。この結果は、日本記録と世界記録のタイム差を埋めるほどだということだ。

 スッポン泳法は確かに速くは泳げるが、肩の筋力の強さが要求され、それなりにエネルギーも使う。ただし、従来の泳法と比較すると、ストローク回数が減ることから、中距離(400m)以上泳ぐ競技から有利な泳法になる解析結果が出ていると言う。

 それを実験により数値化したデータが以下だ。

I(スッポン泳法)とS(従来泳法)のストローク数比較。距離別。
Laが蓄積乳酸値、HRは心拍数。青いラインがスッポン泳法で、赤いラインが従来泳法

 泳ぐスピードと蓄積乳酸値と心拍数の増加の関係を示したグラフ(短距離になるほど泳ぐスピードが速くなる)を見ると、赤と青、2本のラインが入れ替わるポイントがあることが分かる。つまり、遅めの泳速では従来泳法の方が疲れづらく、速めの泳速ではスッポン泳法の方が疲れづらいことを示している。これは競泳競技のように全速力で泳ぐ場合には、意外にもスッポン泳法は疲れないことを意味している。短距離では無酸素状態で乳酸がたまる前に泳ぎ切れてしまうかもしれないが、中長距離になると乳酸蓄積が利いてくる。つまりスッポン泳法でないと勝てないということだ。

 従来泳法は、スッポン泳法ほどに筋力を使わないので、ストロークピッチを上げやすい半面、血流が筋肉に行き渡らず、その結果として乳酸蓄積量が上がりやすくなる。一方、スッポン泳法は、腕の筋肉に強い負荷が掛かることから、そもそもストロークピッチを上げられないため、無酸素系運動になりにくく、乳酸蓄積量が従来泳法に比べて上がりづらい。

日本で生まれた泳法なのに……

 スッポン泳法を学会で発表し、メディアで取り上げられた途端、真っ先に飛びついたのは、残念ながら日本以外の国々だった……。日本で生まれた泳法で、海外のスイマーたちはぐんぐんとタイムを伸ばした。一方、日本では、テレビ番組やマスコミはこぞって飛びついたものの、実際に日本の水泳界ですぐに浸透することはなかったと言う。

 「日本も発表当時からスッポン泳法を採用してくれていれば、いまのように水泳の記録が突き放されることはなかったと思います。日本の保守的な文化が悪く作用してしまったのでしょう。似たような話で、日本で生まれた技術が、他国の製品に実装され、輸出で先を越されてしまうということを聞きます。何事も機動力というか、決断力が大事ですね」(伊藤氏)。

 スッポン泳法は、頭で理解できても、実際、なかなか習得できないものだと言う。それだけ、人に長年かけて染みついた癖というのは、なかなか強力だ。国民性故の思想というのも、なかなかしぶといものなのかもしれない。

 現在は日本でも、このスッポン泳法がやっとスタンダードになりつつあるが、いまだに従来泳法にこだわるコーチも存在するそうだ。作戦があった上で、あえてそうならいいが、単に従来の考え方にとらわれての結果であれば問題だ。

 北京オリンピックが開催された2008年、水泳界では水着の開発合戦となった。日本は泳法の改良よりも、この“水着戦争”に気を取られてしまう形になったと言う。全身を覆う水着は、スイマーの身体能力の差をある程度カバーしてしまうほどの威力を発揮してしまうことが判明し、その着用は現在、水泳競技のレギュレーションで禁止されていると言う。水泳界の今後は純粋に、身体能力と泳法で競うのみとなった。従来の考え方にとらわれている場合ではなくなったのは必至だ。

流体力学の世界は、実験が大事

 「一番好きだったのは、スポーツよりは、生き物。いまもそう」と言う伊藤氏。スポーツ科学への取り組みは、生き物の動作の研究が原点となっているそうだ。また、この生き物の動作にまつわる流体理論は、今後、さまざまな産業・分野における応用や発展が期待できると話した。

 伊藤氏の解析は、マラソンのペースメーカー解析の一部では有限体積法(ANSYS FLUENT)を使ったが、それ以外の解析については、差分法でも有限体積法でもない手段を取っている。連立方程式と実験結果の組み合わせで成り立つ伊藤氏独自の手法だ。使用しているツールは、Excelによる表計算と「Mathematica(マセマティカ)」のみと、至ってシンプルだ。

 自動車や航空機など、形ありきの流体の世界では、伊藤氏の取る手法は残念ながら応用できないということだ。ただし、ロボット工学のような動作が起こる分野では応用できるし、このような実験ありきの考え方自体は、どの分野の流体力学でも共通して大事なことだと伊藤氏は話す。

 「最近の流体力学では、計算機(ソルバー)という“ブラックボックス”があり、そこにインプットして、訳が分からないまま、きれいな図と共に結果が出てきます。流体解析に携わる人の多くが、風や空気の力の感じが、一体どういうものなのか、実はよく知らないんです。知らないのに、『流れはこうだ』という話をしています。ですから、流体解析をする前に、まず実験を身に付けること――『実際の流れを体験すること』が一番大事だと私は思います」(伊藤氏)。

 今回のようなマラソンや水泳のストロークと照らし合わせることで、流体力学の原理のイメージはしやすくなる。力学の世界は、目で見えることは限られていて、触覚や筋力で実感できる要素が多い。力学は、CAEの可視化で理解しやすくなる一面はあるものの、やはり力を“感じる”“体験する”ことで、腑(ふ)に落ちて、真の理解となるといえるだろう。

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