豊田佐吉が「発明家」から「技術経営者」に進化、豊田喜一郎も登場トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(9)(2/6 ページ)

» 2025年10月28日 06時00分 公開

3.豊田織布菊井工場の設立

 1909年(明治42年)、新聞紙法公布。伊藤博文暗殺事件。同年10月、鈴木式織機製作所(現在のスズキ)設立※1)

※1)鈴木式織機製作所(現在のスズキ)は、1909年(明治42年)に大工から身を起こした当時21歳の鈴木道雄により織機メーカーとして創業された。翌年の1910年(明治43年)、2色の横糸を自動的に切り替える装置を考案して評判になり、順調に業績を伸ばした。無地か縦縞しかできない時代に、横縞や格子柄を織ることができる画期的な発明だった。1920年3月15日に静岡県浜名郡天神町村(現在の静岡県浜松市)で株式会社としての法人を設立。資本金は50万円。鈴木道雄が社長に就任した。当初の木製織機から後には金属製自動織機の生産へ移行。1929年(昭和4年)、独特な格子柄を効率よく織れる「サロン織機」を開発して海外にも進出。企業規模を拡大するとともに、精密機械の加工ノウハウを蓄積した。

 しかし、近代化された力織機はいったん織物工場に納入されると長年の稼働が可能な耐久商品で代替需要が小さく、将来の販路飽和が予見されたことから、機械技術を生かした多角化策として、早くから自動車産業への進出検討を始める。この点、豊田佐吉に触発され同じ考えになっていた。1936年(昭和11年)に娘婿の鈴木三郎に研究開発を指示。鈴木三郎は、すぐさま英国の小型車「オースチン」を購入して分解調査を開始。豊田喜一郎が大型乗用車の国産化を目指したのに対して、鈴木道雄は小型車を目指した。1939年(昭和14年)、ほぼ自社製部品で完成した試作車は、当時のクルマとしては優秀なレベルで、すぐに本格的な工場の建設に着手。しかし、第二次世界大戦でクルマの開発は中断。新工場は、砲弾や機関銃を生産する軍需工場へと様変わりさせられた。戦後は、1954年に「鈴木自動車工業」へと社名を変更し、本連載第2回で紹介した日本初の量産軽自動車「スズライト」をはじめ、顧客の暮らしに寄り添った商品を数多く世に送り出した。1990年に事業の多角化と国際化に対応するため現社名の「スズキ株式会社」となった。

 表3に示す、1897年(明治30年)〜1912年(大正元年)までの日本の綿布(綿織物)輸出入額の推移にあるように、1909年(明治42年)には日本の綿布(綿織物)の輸出額が輸入額を上回った。この主な要因は、以下の2つの技術的/経済的発展が考えられる。

年次 元号 綿布輸入額(千円) 綿布輸出額(千円) 輸出入差額(千円) 備考
1897年 明治30年 11,489 1,069 Δ10,420 輸入超過
1898年 明治31年 12,056 1,280 Δ10,776 輸入超過
1899年 明治32年 13,873 1,514 Δ12,359 輸入超過
1900年 明治33年 15,364 1,936 Δ13,428 輸入超過
1901年 明治34年 13,580 1,973 Δ11,607 輸入超過
1902年 明治35年 15,892 2,234 Δ13,658 輸入超過
1903年 明治36年 18,211 3,197 Δ15,014 輸入超過
1904年 明治37年 19,003 7,654 Δ11,349 輸入超過
1905年 明治38年 17,049 9,939 Δ7,110 輸入超過
1906年 明治39年 17,949 12,389 Δ5,560 輸入超過
1907年 明治40年 19,058 15,362 Δ3,696 輸入超過
1908年 明治41年 14,887 15,445 +558 輸出超過
1909年 明治42年 14,577 18,527 +3,950 輸出超過定着
1910年 明治43年 13,005 20,490 +7,485 輸出超過
1911年 明治44年 13,293 21,956 +8,663 輸出超過
1912年 大正元年 13,101 24,042 +10,941 輸出超過
表3 日本の綿布(綿織物)輸出入額の推移(1897年〜1912年) 出所:大蔵省(当時)統計、日本綿業倶楽部資料などに基づき作成。数値は概略値または四捨五入

(1) 機械化の進展と生産力の向上

  • 力織機の普及:日露戦争(1904〜1905年)後、日本の織物業では、綿糸を布にするための力織機(動力織機)の導入が急速に進んだ
  • 大規模工場:大手紡績会社は、イギリスなどから大型の力織機を輸入し、大規模な工場で綿布を大量生産した
  • 国産織機の貢献:豊田佐吉が発明/改良した国産の小型力織機(例えば、豊田式汽力織機など)が、国内の農村や中小の工場に広く導入された。これにより、それまでの手織機による家内工業が、機械生産の小工場へと転換し、国内全体の生産能力が大幅に向上した
  • 技術的な優位性:1909年ごろには、国産力織機の生産台数が輸入台数を上回るようになり、織機自体の国産化と普及が生産性を押し上げた

(2)アジア市場への積極的な進出

  • 市場の確保:日清戦争(1894〜1895年)や日露戦争の結果、日本はアジア地域、特に中国(清国)や朝鮮(大韓帝国)といった隣接する巨大な市場への進出を強めた
  • 価格競争力:向上した生産技術と効率的な大量生産により、日本の綿布は、伝統的な手織りの綿布や、欧米の輸入品に比べて安価で供給できるようになった。この価格競争力をもって、アジア市場で勢力を拡大した

 この綿布の輸出超過は、明治時代の日本が「綿糸」に続いて「綿布」という付加価値の高い最終製品においても自国の需要を満たし、さらに国際市場で競争できる能力を持ったことを示しており歴史的に意義深い。これにより、繊維産業は日本の最大の外貨獲得産業として、その後の経済発展を支える役割を果たすようになったといえる。

 豊田佐吉は、1909年(明治42年)2月、上述のごとく自費を投じて西区菊井町藪下(現在の名古屋市西区那古野付近)に試験工場、すなわち図5に示す豊田織布菊井工場を発足させた。実弟の豊田佐助※2)が経営し、同工場は佐吉の営業試験工場として、次々に発明する自動織機にの十分な営業試験を行うために建設された。表4に、豊田織布菊井工場の概要を示す。

※2)豊田佐助(1882〜1962年)は、日本の静岡県で生まれた実業家。トヨタグループ創始者である兄の豊田佐吉の豊田商店を助け、事業拡大に尽力した。1918年の菊井紡織設立時には豊田佐吉、藤野亀之助、児玉一造らとともに出資を行い、専務取締役に就任。1926年に豊田自動織機製作所が設立されると村野時哉とともに監査役に就任。1931年に菊井紡織が豊田紡織と合併すると、豊田紡織社長に就任。1950年からユタカプレコンの社長。1952年から豊田工機の監査役などを務めた。

図5 図5 豊田織布菊井工場 出所:豊田自動織機製作所「四十年史」
項目 内容
設立 1909年(明治42年)2月
場所 名古屋市西区菊井町藪下(現在の名古屋市西区那古野付近)
経営陣 豊田佐助
資金 豊田佐吉が自費を投じて設立
目的 自動織機の研究開発と試験操業を行うための工場
工場規模 木造2階建、れんが煙突付きの工場建屋
敷地面積 約3000坪
設備 豊田式人力織機、自動織機の試作機、織布設備など
役割 (1)試作自動織機の研究・改良
(2)実際に布を織って販売し、開発費用を賄う
(3)技術者・工員の養成
意義 後の豊田自動織機製作所(現在のトヨタグループ)の発祥地。ここでの研究がG型自動織機の完成につながった
表4 豊田織布菊井工場の概要

 国産動力織機の技術確立については前回大筋を述べたが、ここでもう少し詳しく見ておこう。

 1908年(明治41年)10月、豊田式織機の試験工場の立ち上げ時の生産上の問題と工場の条件下での操業の困難さから、三重紡績(後に東洋紡績に合併)は織布技師長の真野愛三郎を豊田式織機の試験工場の操業視察に派遣した。真野愛三郎は帝国大学出身の博士で技術者、しかも三重紡績の取締役3人の1人で、豊田式織機の設立当初からの主要株主であった。真野愛三郎は豊田織布菊井工場で広幅鉄製機の運転状況を視察した。真野はその成績が優秀なのに驚き、三重紡績の技師全員に工場を見学させた。

 真野愛三郎の指導の下、三重紡績の技術者と作業員は、自動織機と非自動織機の両方の経験を持ち、輸入織機の操作に携わった(彼らは新型豊田織機の試験を行い、改良を加えた)。豊田式広幅鉄製力織機を、まず試験的に2台を、つづいて100台を購入し、プラット&ブラザー製の織機と性能比較試験を行ったところ、成績が良く全く遜色がなかったため、大量に三重紡績に採用されることになった。

 これが国産広幅鉄製織機の兼営織布会社に採用された最初の事例であり、この時点をもって一応、国産動力織機が輸入織機とほぼ同程度の技術水準に到達し得たことが示された。その結果「豊田式鉄製広幅普通織機H式」は1909年(明治42年)に紡績兼営織布会社に採用された。国産織機が兼営織布会社に採用された第1号である。

 このことは次の意味合いで画期的だった。

  • それまで1万台にも及ぶ海外の輸入自動織機を使っていた兼営織布部門が国産の鉄製広幅力自動織機を使うようになったこと
  • 豊田式織機が、佐吉によるモノづくりの基本技術体制「互換部品による標準化と量産」を構築することで、鉄製力織機の本格的生産体制に入っていたこと
  • 鉄製広幅力自動織機の性能が先進国水準に達し価格も優れていたこと

 一方、豊田佐吉は、既に1908年(明治41年)には「豊田式鉄製小幅普通織機(K式)」を完成/販売していたが、当時の日本国内市場向けの織物を生産していた零細な織布業者の経営実態を考え、また、織物ニーズの多様化を考慮して、汎用性のある低廉な木鉄混製の動力織機として「豊田式木鉄混製小幅動力織機(I式)」を完成させた。

 表5は、1909年(明治42年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2で示した番号)
16194 佐吉(本人) 明治42.3.31 明治42.5.5 15.投杼桿受
16870 佐吉(本人) 明治42.6.29 明治42.8.9 織機(16.ブレーキ切り装置)
17028 佐吉(本人) 明治42.6.10 明治42.9.28 1.自動杼換装置⇒今回解説
17174 佐吉(本人) 明治 42.6.29 明治42.10.9 経糸停止装置(6.たて糸切断自動停止装置)
17877 佐吉(本人) 明治42.? 明治42.? 4.ウェフトフォーク抑制装置
17878 佐吉(本人) 明治42.? 明治42.? 13.耳残り糸切断装置
17879 佐吉(本人) 明治42.? 明治42.? 22.綜絖杼釣手
表5 1909(明治42)年に豊田佐吉が出願した特許

 表5に示すように、豊田佐吉は明治42年6月10日に自動杼換装置を発明し、同年9月28日に特許第17028号を取得。予備の杼(シャットル)を杼箱(シャットルボックス)の下に置き、木管の糸がなくなる直前に、シャットルを杼溜に押し上げる方式の自動杼換装置を発明し、これを装着した織機を150台製作して営業的試験を実施した。これが日本で最初の実用的自動織機といっても過言ではない。

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