豊田佐吉が「発明家」から「技術経営者」に進化、豊田喜一郎も登場トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(9)(4/6 ページ)

» 2025年10月28日 06時00分 公開

5.豊田式織機の辞任を機に長期の欧米視察へ

 1909年、佐吉は製造体制の強化に向けて、木本鉄工所の買収を進める準備を始めた。佐吉の技術陣(設計責任者の岡部岩太郎、鋳造責任者の久保田長太郎など)は木本鉄工所に移籍し、鋳造技術と部品精度の向上に貢献した。

 さらに、佐吉はこの年に米国特許を出願し、環状織機や自動杼換装置に関する技術を国際的に保護する動きを強めた。これらの発明は、後の豊田式G型自動織機の基礎となる重要な技術群であった。

 この1909年は、佐吉が「発明家」から「技術経営者」へと進化し、国際競争を見据えた製造体制の確立に踏み出した年といえよう。

 図2に示した通り改良にも取り組みも、1909年までにA式からL式までの自動織機が完成した。表8で、これらの自動織機の型式名、完成年、構造、幅、製作台数、用途/特徴を整理した。

型名 完成年 構造 製作台数 用途/特徴
A式 1907年(明治40年) 木鉄混製 小幅 1846 天竺木綿、粗布、金巾、輸出向け縞木綿など
B式 1907年(明治40年) 軽便式木鉄混製 小幅 4731 薄地に適する
C式 1907年(明治40年) 軽便式木鉄混製 広幅 180 -
K式 1908年(明治41年) 鉄製 小幅 213 -
H式 1908年(明治41年) 鉄製 広幅 3742 厚地に適する
I式 1909年(明治42年) 改良型木鉄混製 小幅 6088 絹織物、モスリン、セルなど
L式 1909年(明治42年) 鉄製 小幅 15247 蚊帳、ガーゼ、真岡木綿、朝鮮木綿、満州木綿など白木綿全般に適する
表8 1909年までにA式からL式までの自動織機が完成

 1910年(明治43年)、日本は、韓国を併合※7)。大韓帝国は消滅し、朝鮮総督府が設置され、第二次世界大戦終結まで日本の統治下に置かれた。大逆事件※8)(幸徳事件ほか)。

※7)韓国併合(Japanese annexation of Korea)とは、ポーツマス条約の調印後、1910年(明治43年)8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」に基づき、大日本帝国が大韓帝国を併合して統治下に置いた出来事。朝鮮併合、日韓併合、日韓合邦ともいう。大韓帝国側の全借財を肩代わりし、その領土の朝鮮半島を領有。朝鮮総督府を通じて1945年までの35年間、植民地として統治した。

※8)大逆事件とは、1910年(明治43年)に多数の社会主義者、無政府主義者が明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。大逆罪の名の下に24人に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12人が処刑された。幸徳事件とも言う。

 表9に、1910年(明治43年)に豊田佐吉が出願した4件の特許を示す。

特許番号 発明者(特許権者) 出願日 登録日 発明の名称(連載第7回の図2の番号)
18263 佐吉(豊田式) 明治43.3.14 明治43.7.8 二丁杼替準備装置
18548 佐吉(豊田式) 明治43.3.14 明治43.9.12 投杼機構二丁杼転換装置
18663 佐吉(豊田式) 明治 43.3.28 明治43.10.8 経糸停止装置(6.ヘルド探知機械式(改良型たて糸切断自停止装置)⇒今回解説
19216 佐吉(豊田式) 明治43.3.29 明治44.1.23 23.綻絖枠
表9 1910年(明治43年)に豊田佐吉が出願した特許

 豊田佐吉は1910年(明治43年)4月、豊田式織機の常務取締役を辞任した。その理由は、豊田式織機は表2に示したように、日露戦争後の1905年(明治38年)9月以降の不況期には織機の受注台数が2200台と減少して業績不振に陥って、配当もできない状況となったことのその責任を取るためだった。

 筆者の邪推であることを断っておくが、実際の辞任理由としては、以下のようなことが挙げられるのではないだろうか。豊田式織機の社長の谷口房蔵がもうけばかりを考え、佐吉が猛反対する完成途上の織機を売ったこと。それによる、顧客からの大変なクレームがあったこと。佐吉に対する「経営能力がない」などとの罵声があったこと。研究開発や佐吉を全く理解しないこと、など。

 一方、豊田佐吉は、自費を投じて設けた西区菊井町藪下の試験工場で次々に発明する織機の十分な営業的試験を行っていた。さらに、豊田自動織機は、佐吉が30年間苦心に苦心を重ねて開発したものであり、豊田式織機設立以前からの技術開発のスタッフ、鈴木利蔵や大島理三郎、長男の喜一郎、実弟の佐助も佐吉とともに行動していた。製造は豊田式織機、発明/開発/試作/試運転は豊田家の事業所で、という分担ができていた。

 1910年5月8日、もう一度やり直そうと考え日本郵船の因幡丸で、図9に示すように幼なじみで実践的な織物工場技術者でもあった社員の西川秋次を伴い、織機の先進国である米国と欧州の繊維工業地帯へ出発。目的は織機の視察と比較研究、自分が発明してきた豊田自動織機についての米国における特許取得と普及にあった。三井物産ニューヨーク支店長の瀬古孝之助の案内を得て、シカゴ経由でニューヨーク入りし、ボストンを中心にニューベッドフォード、フォールリバー、プロビデンス、ウースターといった織物産地の織機業者、繊維工場を同年10月まで見学し、米国製織機の構造や性能を詳細に観察した。

図9 図9 日本郵船の因幡丸と豊田佐吉(中央)、西川秋次(左) 出所:豊田自動織機製作所「四十年史」から作成

 佐吉は、米国の製織工場と実験設備の規模に関しては日本とは桁違いのスケールであり、整備されている織物生産システムには大変感心した。しかし、自身の工場での実験や発明に基づいて米国製織機の構造と運転状態を評価することで、織機自体は自身の発明したものの方が良いと感じ、自信を深めた。比較の結果、米国製織機は主に、以下の点で劣っていると考えた。

  • 回転速度が遅い
  • 振動が大きい
  • ドレーパーのボビン交換機構が複雑すぎる
  • 経糸の切断率が高く、布の欠陥が多い

 佐吉はまず、「自らの技術的能力は米国の織機メーカーよりも優れている」と感じていた。また、「競争力のある自動織機を発明することには、国際的に大きな価値がある」と確信し、そして「米国で特許を取得する」ことを決心して、日本から技術者の石原卯八を呼び寄せた。西川と瀬古は米国での特許出願手続きを進めた。

 1909年(明治42年)〜1914年(大正3年)にかけて、佐吉は米国で合計6件の特許を取得した。その内容には以下の内容が含まれる。西川はその後も欧州に滞在し、特許出願の手続きを継続した。佐吉の海外滞在は1912年末までの2年半に及んだ。

  • 経糸供給装置(warp let-off)および円形織機(circular loom)【1909年】
  • 自動杼交換装置(automatic shuttle-changing mechanism)およびピッカー制御(picker check)【1910年6月に出願し、1912年に登録された(米国特許番号:第1018089号)】
  • 杼交換式織機【1912年】
  • 杼補給用の保護装置【1914年】

 さて、米国において、豊田佐吉の度肝を抜かすほど驚かせたのは、ニューヨークのマンハッタンにあふれている自動車の群れの光景であり、人々の移動手段としての大変な普及状況であった。1908年に発売されたフォード・モーターのモデルT型は、大衆が買える850ドルという安い値段であり、米国ではモータリゼーションが爆発的に進みつつあった。

 織機というものは、糸を織って布を生産するための機械で、織機を買う人間は、主に織物製造に関わる事業者で、いわば金持ちに限られており、顧客数が少ないものであり、機械自体もそんなに売れるものではないことを、佐吉はずっと感じていた。ところが、自動車の顧客は大衆の庶民であり、その絶対数も多く、当たれば大きなもうけになることは、間違いがない。

 佐吉は、「自動車の時代が来る。次の事業としての仕事は自動車事業である」と直感したはずである。

 人生50年といわれる日本社会の中で、佐吉の年齢が既に40歳代半ばであったことを考えれば、息子の喜一郎に自動車の開発を勧めたのは、この時の経験(直感)があったからであろう。

 またニューヨークでは、化学者の高峰譲吉博士※9)と会って、懇談した。

※9)高峰譲吉(たかみね じょうきち、1854年(嘉永7年)〜1922年(大正11年))は、日本の化学者、実業家。工学博士および薬学博士。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、米国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業、スタートアップの先駆者。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。発明を実用化するための試験/研究の重要性や、発明に伴うもろもろの障害を経験した高峰博士の話には、佐吉としても共感するところが多々あり、その後もたびたび訪ねて懇談を重ねるうち、帰国して再起を期する自信と勇気が湧いてきたという。

 その懇談内容を記した「豊田佐吉伝」(豊田佐吉翁正伝編纂所、p.19、1933年)を要約すると、おおよそ次のようになる。

高峰博士が言うには「有益な発明はよく不成功に終わる。それは、社会と発明者の責任である。発明品を商品化し、実用化するのは、発明者の責任である。実用化に見込みがつくまでは、発明者は発明品から離れてはならないし、面倒を見る責任がある。これが発明を完成するみちだ」。つまり、「発明は社会に役立つまで責任を持つべきだ」ということで、佐吉はこの言葉に深く共感した。

 1910年10月8日、佐吉は西川に特許手続きを託して米国を離れ、英国へ向かった。マンチェスターをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアを訪問し、11月30日にモスクワからシベリア経由で満州に入り、満鉄沿線の主要都市を経て、北京、上海まで脚を伸ばして、1911年(明治44年)1月1日に下関を経由して帰国した。

 マンチェスターでは、平均的な女性作業員が4〜5台の織機を操作していることを知り、日本の労働者がより多くの機械を扱える可能性に着目。自動織機の導入によって、日本の労働コストが英国の23%まで下がると試算し、「必ず英国を追い越す」と確信したという。

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