デザイン思考は製造業を変えたのか? 開発現場から見たデザイン思考の功罪[前編]設計者のためのインダストリアルデザイン入門(8)(1/3 ページ)

製品開発に従事する設計者を対象に、インダストリアルデザインの活用メリットと実践的な活用方法を学ぶ連載。今回から“デザイン思考は製造業を変えたのか?”をテーマに取り上げる。[前編]ではデザイン思考の概要を解説するとともに、実際の経験を踏まえた筆者自身の見解を述べる。

» 2024年01月11日 09時00分 公開

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はじめに

 “デザイン思考デザインシンキング)”――2000年代初頭、この言葉はビジネス界に新たな風を吹き込みました。Apple(アップル)の製品をはじめ、数々の名高い製品がデザイン思考を利用して生み出されたと解説され、それは魔法のように感じられました。

 2010年代初頭には、国内外のコンサルティング会社はデザイン思考を課題解決の手段として彼らのビジネスに取り入れ、デザイン思考を主体とするワークショップ型のサービスを提供し始めました。ここでコンサルティング会社の顧客となったのは、既存事業の衰退に対する新たな解決策を求める大手企業の新規事業部門などです。

 日本では、2018年に経済産業省と特許庁が発表した「『デザイン経営』宣言」でデザイン思考が紹介されることで、その存在がより広く認知されました。

 しかし、近年では一部の権威あるジャーナルでデザイン思考に対する否定的な記事を目にするようにもなりました。さらに、2023年11月にはデザイン思考の立役者であるデザインコンサルティングファームのIDEO(アイディオ)が全従業員の25%を解雇し、ミュンヘンと東京のオフィスを閉鎖することが公表されました。デザイン思考の隆盛にひび割れが生じ始めたように見えます。

 さて、筆者自身はというと、デザイン思考が日本に渡ったであろう2010年ごろにそれを知り、当時在学していた桑沢デザイン研究所でデザイン思考を体系的に学びました。その後、大手企業とハードウェアスタートアップでの実務経験を経て、日本でデザイン思考が広く活用され始めた2010年代後半にはコンサルティング会社でデザイン思考をサービスとして提供する仕事にも従事していました。

 筆者は“インダストリアルデザインの専門家”であり、“デザイン思考の専門家”ではありませんが、今までのキャリアを振り返ると“デザイン思考の実践”について多くの経験を積み、デザイン思考の恩恵も受けてきました。だからこそ、昨今のデザイン思考を覆う暗雲には納得しつつも、もったいなさも感じています。

 そこで本稿では、日本の製造業において「デザイン思考がこれまでどう活用され、どのような評価を受けてきたのか。そして、これからどう変わっていくのか」について、昨今の議論やこれまでの経験を踏まえつつ、筆者の見解を整理してお伝えすることにしました。

 先に結論から述べると、筆者はフレームワークや思想、哲学としてのデザイン思考には肯定的にならざるを得ません。しかし、日本におけるデザイン思考の広め方については疑問を抱いており、今後デザイン思考がどう伝えられるべきかは再考する必要があると考えています。

 以降では、なぜこの結論に至ったのかを解説します。将来、事業にデザイン思考を取り入れてみたいと考えている方にとって、ここで紹介する情報や筆者の経験が少しでも参考になれば幸いです。

デザイン思考とは

 デザイン思考は、冒頭にも登場した米国のデザインファームであるIDEOが実用的な体系化を行い、世界に広めたとされています。IDEOは過去Appleのマウスをはじめ、多くの工業製品のデザインや開発を手掛けてきた会社ですが、今ではサービスやサプライチェーンなど、製品そのものに限らずさまざまなモノやコトのデザインに取り組んでいる企業です。

 IDEOの前CEO(現会長)であるTim Brown(ティム・ブラウン)氏によると、デザイン思考とは「デザイナーの発想法から生み出された、イノベーションへのアプローチ手段であり、“人々のニーズ”“テクノロジーの可能性”“ビジネス成功の条件”の統合を図るものである」と定義されています。

 そして、デザイン思考を活用する目的は「“顧客価値(Customer Value)”と“事業機会(Market Opportunity)”を創出することにある」としています。

 顧客価値と事業機会の創出を目指すこと自体は他の問題解決フレームワークと変わりません。デザイン思考の特徴は「“ユーザーのニーズ”を起点にしている」ことと、「解決策を“チームで共創”していく」ことにあります。従って、デザイン思考のフレームワークでは、顧客が持つ潜在的な課題を的確に捉えるプロセスに重点を置き、ソリューション検討の際には、単一の意見や技術でなく複数の専門性による共創を促します。

 そして、このプロセスを踏むが故に、“今までに思い付かなかったソリューション(イノベーション)を創出できる可能性が他のアイデア発想プロセスよりも高くなる”というのがデザイン思考の主張であり、訴求される利点です(詳細なプロセスやツールについての説明は本稿では省略します。気になる方は記事末の参考文献を参照ください)。

 2000年代に差し掛かるころには、さまざまな業界のコモディティ化が進み、多くの企業で事業成長のためのイノベーションが求められるようになりました。そんな中、デザイン思考はイノベーション促進の手段として認識され、期待されるようになったのです。

 ちなみに、日本でデザイン思考が取り上げられる場合、IDEOの事例に加えて、米国スタンフォード大学のd.Schoolの事例が用いられます。d.SchoolはIDEOと同様に、先駆けて米国でデザイン思考の活用を推進していた組織であり、IDEOの創始者でもあるDavid Kelley(デビッド・ケリー)氏らが創設メンバーです。

 2つの組織の関係性は、d.Schoolが理論的な基盤と教育的枠組みを提供し、IDEOが実世界のプロジェクトを通じて、その理論を応用しているという見方ができます。

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