モノづくり現場を数多く取材してきたジャーナリスト・本田雅一氏による“モノづくりコラム”。顧客ニーズや競争環境の変化だけでなく、産業のルールまでも覆したスマートフォン/タブレット端末を中心とするイノベーションの連鎖は、ようやく落ち着きつつあるようだ。これからは、自らの価値の再考と正しい方向を見極める力が求められる。
「印刷業というのは、実は製造業とまったく同じ商売なんですよ」。
先日、シアトル・タコマ国際空港から関西国際空港へと飛び、空港からその足で向かった講演の後、大変興味深い話を聞くことができた。地元の大手印刷会社の経営者が、“ペーパーレス化が進んだ後の印刷会社運営”について語ってくれたのだ。冒頭の言葉を発した彼は、次のように続ける。
「印刷業は、同じ印刷物をなるべく高いスループット(単位時間当たりの処理能力)で、なるべく大量に印刷します。そういった意味では、同じ商品をなるべく早く・安く・大量に作ることで大きな利益を出そうとしてきた製造業と根本的に似ています」。
こうした考えの行き着く先は、「輪転機(輪転印刷機)への定期的な投資」だという。大規模印刷の機材に億単位の投資をすることはできても、それ以外への投資はできない。これには心理的なものもあるようだ。印刷会社の経営者には、会社を親から引き継いだ2代目も多い。長い間の印刷業における成功体験は、なかなか消えないものだ。
イノベーションによって世の中が変わったことを頭では分かっていても、“これまでのやり方を大きく変える”という決断は簡単に下せない。これが普通だ。しかし、この印刷会社の経営者は、全ての輪転機を他社に売り払い、“印刷工程を全て外注する”ビジネススタイルに切り替えてしまったのだ。
「輪転機を回すことが、自分たちの価値ではないと気付いたからです」。
大きなイノベーションが起きたとき、その後に続く世の中の変化は驚くほど速い。イノベーションによって生まれる産業構造のひずみ。そのひずみから生まれる隙間に新たなビジネスチャンスを見つけ、ものすごい勢いで飛び込んでいく新興企業が生まれるからだ。
シアトルから大阪での講演に向かう途中にも、まさにそんな体験をしていた。中には「当たり前じゃないか!」という方もいるだろうが、あらためて振り返ってみると本当に驚く。インターネットが世界中をつなぎ、スマートフォン/タブレット端末という最も身近なディスプレイが普及した世の中で、“紙”というメディアは今後どのように変化していくのだろうかと考えさせられた。
シアトルでの朝――。ホテルにつながるショッピングモールでちょっとした土産を購入した。ここ数年、米国で普及が進んでいるクレジットカード端末(ディスプレイに表示される購入品一覧を確認しながら、自分でカードを通して決済できる)を使って決済すると、そのデパートの会員カードを通すように促された。指示通りにカードを通すと、「会員情報として登録されているメールアドレスにレシートを送るか?」と尋ねられる。ここで「YES」とすればレシートは印刷されずに、電子メールで手元に届く。
ホテルからシアトル・タコマ国際空港に向かうシャトルサービスも、もちろんペーパーレス。ネットでの予約確認コードを電子メールで受け取るだけ。そもそもシャトルに乗るチケットがないのだ。ホテルのチェックアウトも同様、Webやスマートフォンのアプリでチェックアウト処理が行える。部屋を出る際にチェックアウトを選び、電子メールでの明細配信を選べば、会員登録してあるメールアドレスにレシートが送付される。
航空業界のペーパーレス化は日本の方が進んでいた面もあるが、北米でも急速に普及が進んでいる。今や多くの航空会社がスマートフォン用アプリを持ち、電子発行されたQRコード付き電子搭乗券を使えるよう整備が進められている。セキュリティチェックで搭乗券とパスポートを見せる際も、電子搭乗券ならばQRコードをスキャナーにかざすだけでいい。
関西国際空港に到着したら、すぐに難波までの最短経路をスマートフォンで検索。経路を電子保存しておき、「おサイフケータイ」機能を使って電車で難波まで行き、そこから会場までのタクシー代を「QUICPay(後払い方式の電子マネー決済サービス)」で支払った。
いかがだろう。この間、さまざまなトランザクションがあったはずだが、ただの1枚も印刷物が必要な場面はなかった。あらためて、かつてのライフスタイルとの違いを考え直すと、少し背筋が寒くなる感覚を覚えた。もちろん、「便利になった!」という実感を持つ人の方が多いだろうが、印刷業界の方々とのミーティングを控えていた筆者には、あまり笑える話ではなかった。
一連の流れを考えれば、スマートフォンを“究極のオンデマンドプリンタ”という切り口で論じることもできるだろう。
近年のスマートフォンは、まるで印刷物かのような高精細フルカラー表示が可能なディスプレイを備え、通信網に常時接続されている。しかも、端末が個人にひも付いているから、特定の個人あるいはグループに対してカスタマイズした情報を送ることもできる。
こうした話題は、既に10年以上にわたって度々繰り返されてきた。筆者が米アドビ システムズ(アドビ)のテクノロジフォーラムに招待された際、彼らは「電子ドキュメントのための統合的なツールを作る会社になるのだ」と話していた。紙の果たしてきた役割を電子ドキュメントで充足できるよう、文書、アートワーク、写真、各種刊行物など、分野を問わず電子的に流通させ、オンデマンドで必要なときにだけプリントさせる。アドビは、そんな世の中で必要なツール・技術を提供し、物事の解決に当たる。その後、彼らは少しずつ製品戦略を修正しながらも、確実にこのときのビジョンを実現させている。
アドビは、文書の電子化、“印刷物”をめぐるビジネスモデルの変化、イノベーションに乗る形で戦略のベクトルを修正し、最も大きな成功を遂げた企業といえるだろう。イノベーションによる市場全体のひずみ。そこに生まれたクレバス(深い割れ目)の中で、最も大きく深い場所を見極めて自社の技術開発の方向性を決めることができたのだ。
米ヒューレット・パッカード(HP)は、こうした新しい電子ドキュメントの時代で、大きな影響を受けてきた企業の1つだ。HPは、オンデマンドプリンタを事業の主力に、B2B、B2Cを問わず、あらゆるところに印刷機を納入してきた。コンピュータやネットワークの普及・進歩がオンデマンドプリントのボリューム増加を助けて成長したが、そのコンピュータとネットワークの進歩が、文書の電子化を促してプリントボリュームを減らしているのはご存じの通りだ。
HPは、この流れに逆らうのではなく、乗っていくことにした。「HP ePrint」と呼ばれる戦略は、その一環だったはずだが(残念ながら大成功とは言い難い状況に見えるものの)、まだ戦略の出口は見えない。HPは、パーソナル、ビジネス、エンタープライズなど、さまざまなレイヤーにおける電子ドキュメントの流れを接続し、各所に自社の製品(オンデマンドプリンタ)を配置することで、プリントボリューム偏重のビジネスモデルから脱却しようとした。
もちろん、これは過去に起きたイノベーションであり、既に結果が出始めていることでもある。同様の事例には、デジタルカメラの隆盛とDPEサービス、プロラボなどの関係もある。長い時間をかけて築いてきた信頼を基にしたプロラボのビジネスは、上記の例における大規模印刷の業務を想起させるし、DPEビジネスの環境変動は、キンコーズ(Kinko's)などのリアル店舗を活用したオンデマンド印刷業になぞらえることができるかもしれない。
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