シンプルであるが故に抜本な改革が起こりにくいタイヤ技術。しかし製造工法に革命を起こし海外に打って出ようという日本企業がある。国内シェア4位の東洋ゴム工業だ。新工法を展開する仙台工場を小寺信良が訪ね、同社の中倉健二会長にインタビューした。
人類が車輪を発明したのは、今から5700年ほど前だといわれている。「人が抱える」「動物に積む」以外の運搬方法が車輪によって初めて実現し、人類の飛躍的な発展に貢献した。ただ、車輪の外周にゴムを取り付けた、いわゆる"タイヤ"の発明は、19世紀半ばまで待たねばならなかった。人類は実に5000年以上もの間、硬い車輪に乗り続けてきたわけである。しかし当時のタイヤは現在のような空気入りではなく、鉄の輪もしくは、中身まで全部ゴムであった。
空気入りタイヤは、1888年スコットランドの発明家ジョン・ボイド・ダンロップが自転車用のものを開発するまで、実用的なものは存在しなかった。自動車用の空気入りタイヤについては、1895年に開催された長距離レースにて、フランスのミシュラン兄弟が使用したのが最初とされている。
今でもタイヤブランドとして知られる名前が続々出てくるわけだが、実はそれだけタイヤというのは、シンプルであるが故に抜本な改革が起こりにくい分野である。
近代の大改革は、1946年にミシュランが開発した、ラジアルタイヤだ。これはタイヤの芯材の方向を改良し、従来のバイアスタイヤに比べて大幅に剛性を高めたものである。現在の主流はラジアルタイヤであり、バイアスタイヤも重量物の低速運搬用タイヤとして一部市場に生き残っている。
誰もがよく知ってるようで知らないタイヤの世界。今回は東洋ゴム工業(以下、東洋ゴム)の仙台工場を見学する機会に恵まれた。仙台工場とは言っても、実際には仙台駅から電車で20分程度南に下った、岩沼市にある。
このあたりは、仙台空港にも近い。震災時に同空港が津波に襲われた映像をご覧になった方も多いと思うが、この周辺は津波による被害の大きかった地域だ。だが幸いなことに東洋ゴム仙台工場は、工場の海側を走る仙台東部道路が防波堤代わりとなったため、津波の被害を免れた。もちろん揺れによる被害は相当あったが、およそ2カ月で震災前の水準にまで操業を回復している。
この教訓を生かし、岩沼市では、震災で発生したがれきを活用して海岸線に丘を築造、植樹することで津波を減衰させる、「千年希望の丘」プロジェクトを実施している。東洋ゴムもこのプロジェクトに寄付を行い、工場従業員からも多数が復興ボランティアに参加した。
日本のゴムタイヤ産業を見てみると、売り上げの第1位はブリヂストン、第2位は住友ゴム工業、3位が横浜ゴム、4位が東洋ゴムとなっている。
東洋ゴムは、1945年に大阪で創業した。間もなく創業70周年を迎えるが、上位3社に比べれば比較的若い会社だ。それほどタイヤ業界というのは、長期安定産業なのである。
東洋ゴムの持つブランドは、フルラインアップの「TOYO TIRES」、アグレッシブなパターンデザインが特長の「NITTO」の他、2010年にマレーシアのタイヤメーカー「Silverstone」を買収し、3ブランド展開となっている。中でもNITTOは、スポーツカーやピックアップトラック用の高級ブランドとして米国で圧倒的な支持を得ている。NITTOブランドのfacebookページを見ていただければ雰囲気が分かることだろう。
仙台工場は1962年に東北トーヨーゴムとして設立され、1978年に東洋ゴムに合併された。大阪と岩沼ではかなり離れているが、当時の会社幹部に関係があった土地で、この地域では初の大型工場として設立した。そのため、仙台も含めた近郊の優秀な人材を集めることができたという。
現在仙台工場で生産しているのは、乗用車用ラジアルタイヤが89%、残りはライトトラック用ラジアルタイヤである。仕向地比率としては、国内向けが23%、輸出用が77%となっており、仙台港からの輸出コンテナ量としては、全輸出コンテナの39%を占めている。仙台港でトップの輸出品が、同工場が生産するタイヤというわけである。仙台港から輸出されるタイヤのうち、北米向けが43%となっている。
仙台工場の立ち位置は、東洋ゴム代表取締役会長中倉健二氏の弁を借りれば、「おもちゃ箱みたいな工場」だという。「雑多に見えるが、いつも何か新しいことをやっている。伝統的に自主独立の気風がある拠点だ」と中倉氏は話す。
この工場で、とてつもない発想でタイヤ製造の新工法が開発され、およそ2年足らずで量産実用化した。これにより東洋ゴムの世界進出計画が、がらりと変わることになる。
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