前回の連載第11回で触れたが、1925年(大正14年)10月、豊田佐吉は、帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金100万円を寄付する。帝国発明協会と締結した契約内容では、5年間で50万円を基金として寄付し、その基金の利息が年間3万円に満たない場合、不足額を佐吉が負担することになっていた。また、蓄電装置発明奨励事業の一環として、帝国発明協会内に蓄電池を研究する豊田研究室を設置し、蓄電装置開発計画の推進中心母体とした。1927年(昭和2年)には第1回の中間的発明募集を実施し、続いて1931年(昭和6年)に第2回、1935年(昭和10年)に第3回の募集を行った。
喜一郎は、佐吉の蓄電装置に対する期待と考えを受け継ぎ、1939年(昭和14年)に東京の芝浦に蓄電池研究所を設置するとともに、芝浦工場で蓄電池の内製を開始する。さらに、電気自動車の開発を指示し、1940年(昭和15年)ごろに電装工場で内製の蓄電池と不燃性電動機(モーター)を搭載したEC型電気自動車を試作した。
豊田喜一郎が、父である佐吉の遺志を継いで進めた蓄電池研究と電気自動車(EV)開発は、単なる「試作」にとどまらず、現在のトヨタ自動車が掲げる「マルチパスウェイ(全方位)戦略」の原点ともいえる重要な歴史である。
Webサイトや歴史資料、トヨタの社史(トヨタ自動車75年史など)に基づいて詳細を整理して、トヨタの電池や電気自動車の開発について以下の5点にまとめて見ていく。
豊田佐吉は、将来の動力源として石油の限界と電気の可能性を見抜いていた。
喜一郎は、自動車の本格生産(挙母工場/現本社工場)を開始して間もない1939年、東京・芝浦に蓄電池研究所を設置した。
1940年ごろ、電装工場(後の日本電装、現デンソーの母体)において、ついにEC型電気自動車が完成する。表9に、試作時のEC型電気自動車の仕様を示す。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| ベース車両 | トヨタ初の量産乗用車「AA型」の改良版である「AC型」のシャシーを流用 |
| 動力源 | 自社開発の鉛蓄電池(80V)を搭載 |
| モーター | 不燃性電動機(モーター)。火花が出ない安全設計で、当時の劣悪な路面や環境下での使用を想定していた |
| 性能 | 最高速度は時速約30km、1回の充電での走行距離も限られていたが、ガソリンが手に入らない戦時下では画期的な試みだった |
| 表9 EC型電気自動車の試作の仕様 | |
これら一連の開発には、現在のトヨタにつながる3つの重要な視点が含まれている。
喜一郎の電気自動車開発は、戦争の激化による資材不足で本格的な量産には至らなかったが、その技術的DNAは戦後、日本電装(デンソー)へと引き継がれ、現在の世界一の電装技術へと開花した。
もし喜一郎が現在のリチウムイオン電池や全固体電池を見たら「ようやく父さんの懸賞金が払える時代になった」と喜ぶかもしれない。
次回は、1924年に完成し、1925年に本格量産を開始した無停止杼換式豊田自動織機(G型)の技術詳細を紹介する。「世界最高の織機」がいかにして完成し、どのような革命を起こしたのかについて解説する。(次回に続く)
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大学校(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。
トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。
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