FPGAに代表されるプログラマブルロジックICの歴史をたどる本連載。第9回は、AlteraやXilinxと同時期に創業したLattice Semiconductorを取り上げる。当初は会社経営に問題がありチャプター11を申請する状況まで陥った同社だが、新たな経営者を得るとともに、PLDであるGALに事業を絞り込むことでV字復活を遂げる。
今回からLattice Semiconductor(以下、Lattice)の話に移ろう。同社の名前は連載第2回に少しだけ出ている。
Latticeが創業したのは1983年なので、AlteraやXilinxとそれほど差がないのだが、PLD(Programmable Logic Device)市場に参入したのはそれらの企業よりもう少し後である。創業者はRahul Sud博士とRaymond Capece氏。Sud博士はInmosおよびIntelでチップデザイナーとしてのキャリアを積んでおり、一方Capece氏はBenjamin(Ben) M. Rosen氏の下でベンチャーキャピタリストとして働いていた。
ちなみにRosen氏は1981年にSevin Rosen Fundsという名前のベンチャーキャピタルを設立している。同社は同年にCompaq Computerに出資しており、Rosen氏はそのCompaqの会長を務めた他、Electronic Arts、Lotus Development、Ansa Software、Silicon Graphicsなどにも出資したことでも知られる敏腕ベンチャーキャピタリストである。そうした人間の下で働いたCapece氏は、資金調達には相応の自信があったようだ。
技術力に自信のあるエンジニアと資金調達能力に長けたビジネスマンの組み合わせは理想的に見えるのだが、問題は2人とも会社経営能力に欠けていたことだ。LatticeはFPS(Floating Point Systems:米国オレゴン州ポートランドに拠点を置く浮動小数点アクセラレータをIBMやDECのメインフレーム/ミニコンピュータに提供していた企業。1991年にCrayに買収される)の創業者であるC. Norman Winningstad氏の協力を受け、Winningstad氏を含むポートランド在住のメンバーから1900万米ドルの出資を受けたことで創業にこぎ着けた。
ところがSud博士はFablessではなく自社Fabの建設をもくろみ(ちなみに1億米ドル規模)、さらに資金の使い方が雑だったらしい。R&Dに投資する代わりに高価なビルを借りたり、従業員にポルシェをプレゼントしたり、と典型的なダメ会社の道を歩んでいく。このあたりは、共同創業者兼CEOが経営そっちのけで社員食堂のメニューを基にしたレシピ本作りに血道を上げていたことで会社が立ち行かなくなったThinking Machines(1994年に倒産)を少し連想するものがある。
話をLatticeに戻すと、同社は当初高速メモリを提供する方針だったが、これの出荷は1985年までずれ込んだ。悪いことに1985年というのは日本でもバブル崩壊の時期だったが、米国でもドル高に起因する米国内の製造業不況(米国内で製造するより海外から輸入した方が割安だった)が起きていた時期であり、売れ行きは芳しくなかった。というのはこの高速メモリ、既存の設計にそのまま利用することはできず、相手に設計変更を要求するため、景気減退期に売れ行きが悪いのは当然だった。そこで別バージョンのメモリを開発して販売のてこ入れを図るが、このために65人ものマーケティング担当者を新たに雇ったのは明らかにやり過ぎだった(ちなみに1985年第1四半期の売り上げはわずか150万米ドルだった)。
この時期にLatticeは新たなプログラマブルメモリとしてGAL(Generic Array Logic)を手掛けていたものの開発は難航しており、資金が急速に枯渇していく一方で売り上げは伸びなかった。明らかに経営方針に問題があったわけだが、Sud博士はこれを従業員の怠慢に原因を求めたため、Latticeの事業環境は一気に悪化した。それでも1986年、売上高は700万米ドルまで増えた(ただし赤字も700万米ドルだった)ことで、先行きに少しだけ光が見え始めた。
これは難航していたGALの売り上げが急速に伸びたことに起因するが、その1986年にMMI(Monolithic Memories)に特許侵害で訴えられることになる。LatticeはMMIを反訴するものの、訴訟の影響を受けてGALの売り上げは急速に減少することになる。
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