プログラマブルロジック市場を創り出した「PAL」は逆転のひらめきから生まれたプログラマブルロジック本紀(2)(2/3 ページ)

» 2025年09月01日 06時00分 公開
[大原雄介MONOist]

PALの快進撃と衰退

 そしてPALのアイデアを思い付いたBirkner氏は、ほぼ同じタイミングでMMIに入社した回路設計者のH.T.Chua氏、Birkner氏ら以前からMMIに在籍していたAndy Chan氏と一緒にPALの設計を行い、無事に1978年に発売にこぎ着けることとなった。

 PALの開発を始める前、Birkner氏はChua氏と一緒に8ビットや16ビットの乗算/除算器を開発したりしており息は合っていた。Birkner氏はまた、そのPALにプログラミングを行うための言語としてPALASMも作成した(図5)。

図5 図5 PAL Handbookに掲載された3出力8ビットカウンタのPALASMサンプルコード。Birkner氏自身によるものである。“*”がANDを、“+”がORを意味する。“/”はインバーターだ[クリックで拡大] 出所:MMI

 PALASMは、IBM 370/166上で動作するFORTRAN IVで記述されていたが、MMIはこのPALASMのソースコードをPALのユーザーに無償で公開する。その結果、顧客はさまざまなFORTRANが動くプラットフォームにこのPALASMを移植して利用することになる(後にMMI自身がMS-DOSに移植を行い、これを無償で提供するようになった)。

 PALは1978年に発売され、そこから快進撃を果たす。Birkner氏によれば、初年度の売り上げは1千万米ドルだったが、そこからの6年間、毎年売り上げが2倍になったそうだ。つまり5年後の1983年の売り上げは、1978年の32倍(2の5乗)に当たる3億2000万米ドルに達していた計算になる(実際には2億米ドルは超えていたが3億米ドルを超えていたかは不明)。あまりに売り上げが好調だったため、1980年代にMMIはBirkner氏とChua氏に「ポルシェ 911」をプレゼントしたそうだが、その911のナンバーはPALと両氏の名前の頭文字を組み合わせた“PALJB”と“PALHT”だったそうだ。

 PALはまた、MMIだけでなくAMD、NS(National Semiconductor)、TIなどとライセンス契約を結び、これらのメーカーからセカンドソース品が登場することになった。当時のTTL IC全体の市場規模はおよそ10億米ドルだったが、そのうち2億米ドルを獲得したというのはかなり良い結果だったといえる。ただし、このあたりでPALというかMMIの売り上げは頭打ちになって、その後衰退することになる。

 MMIの衰退の理由は、同社がCMOSプロセスをモノにできなかったことに起因する。

 PALはバイポーラプロセスで製造されていたが、市場ではTTL ICもバイポーラからCMOSに製造プロセスをシフトしていった。CMOSの方がより省電力で動作し、また長期的に見ればプロセス微細化の恩恵を受けて製造原価も下がることになった。ただ、別にMMIがCMOSに背を向けていた訳ではなく、同社は実際にCMOSの製造ラインを立ち上げようとした。そのCMOS製造ラインの最初の顧客は創業間もないCypress Semiconductorであり、同社はファブレスとして創業したが故に外部にファウンドリーが必要だった。そこでちょうどCMOSのファブを立ち上げようとしていたMMIに目を付けた格好だが、同社のCMOSプロセスは立ち上げが難航した。

 Cypress創業者のT.J.Rodgers氏は、真夜中までMMIのCMOSラインの調整に取り組んでいたらしいが、最終的には失敗。Cypressは別のファブを見つける必要に迫られた。一方のMMIの経営陣はCMOSプロセスをモノにするためには、さらに多額の資金が必要になると判断。CMOSの開発を中止して、バイポーラベースの製品を売れるだけ売った後で会社を売却する方針を固める。最終的に1987年4月、MMIはAMDに買収される。買収金額は4億2200万米ドルで、株式交換の形で丸ごと買収されることになった。AMDは、CMOSプロセスの開発に成功しており、その結果AMDはプログラマブルロジックの最大手になることとなった。

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