電気自動車とはいったい何なのか、今もつながるテスラとエジソンの因縁和田憲一郎の電動化新時代!(37)(2/4 ページ)

» 2020年04月17日 06時00分 公開

電流戦争

 一方、テスラはエジソン研究所に入社したものの、従来より交流に活路を見出していたため、エジソンが進める直流の発電システムと次第に対立するようになる。数多くの葛藤があったのち、もはやエジソンの下では交流方式を実現できないと考えたテスラは、エジソン研究所を退社し、テスラ電気を設立する。

 一度倒産した後、エンジェル投資家としてウェスティングハウス・エレクトリックが支援を申し出て、交流電力事業を開始する。これが電力システムは交流か直流かといわれる、世にいう「電流戦争(War of the currents)」と呼ばれるものになる。

 交流電力システムの利点は、高電圧にすることにより遠距離送電に向いていることである。送電線で電気エネルギーを送る場合、電線の抵抗によってエネルギーの一部が失われることは避けられない。そのため、発電所から末端までは損失の少ない高電圧で送電し、これを人体に安全な電圧まで下げて活用するというのがテスラのアイデアだった。

 一方、エジソンが直流電力システムにこだわったのは、交流送電の利点は理解していたものの、発電機や変圧器などが当時はまだ開発されておらず、交流技術が未成熟と考えたことが理由である。

 約3年の泥沼の対立の結果、判決が降りる。1893年冬のシカゴ万国博覧会において交流タイプのウェスティングハウス・エレクトリックが全面受注し、交流システムの優秀さを内外に示す結果となった。それまでに交流の発電機や変圧器などが開発されたことも影響する。これを契機として、以後今日に至るまで世界中で、高電圧による交流電力システムが続いている。

 余談であるが、日本の電力事業を立ち上げようと、当時の東京電灯(現在の東京電力)に勤務していた藤岡一助は、エジソンによる直流方式を採用しようとした。一方、大阪電灯(現在の関西電力)の岩垂邦彦は、米国で次第に交流方式が優勢になるにつれ、交流方式の採用に傾く。その結果、大阪電灯はウェスティングハウス・エレクトリックからのライセンス供与を受けて、ゼネラル・エレクトリック(GE)製の発電機を導入したため60Hzとなった。

 一方、最終的には東京電灯も交流方式に追随することになるが、導入したのはドイツ製発電機であり50Hzだった。これが、世界でも例をみない1国2方式の誕生である。言うまでもなく米国は60Hzである。

 さて、電流戦争に負けたエジソンであるが、もともと化学に造詣が深いことから、それまでの鉛電池ではなく、アルカリ性溶液、ニッケル、鉄で構成された、従来よりエネルギー密度が高く、寿命が長い電池を開発して、電気自動車用に使おうとしたようだ。

 しかし、エジソン研究所からスピンアウトして自動車会社を設立したヘンリー・フォードが1908年にT型フォードを発売するやいなや、大ヒットして市場を席巻した。そのため、エジソンが考え出した電気自動車は立ち消えとなってしまった。なお、それ以外に2人の偉人は電気自動車関連で多数の発明をしている。以下に示す。

図表3:偉人の電気自動車に関連する主な発明(クリックして拡大) 出典:日本電動化研究所

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