同社の創業者は、敬雄氏の祖父だ。1960年に大阪市西区に個人事業主としてスタートし、1965年に金剛ダイス製作所を設立。和歌山県で、大叔父(祖父の弟)が和歌山金剛ダイスを設立し、両社が1967年に合併して、現在の金剛ダイス工業となった。
小径穴のねじ金型に特化したのは、創業地が大阪だったためだ。松下電器工業(パナソニック)、三洋電機、シャープなどの家電メーカーが競いあっていた時代、小径穴のねじ金型の需要は大きかった。
創業当時は、超硬合金の加工とねじ金型の二本柱で事業を行っていたそうだ。「高度成長期だから、儲かっていたやろうなぁ〜と思います」と敬雄氏は笑う。
しかし、バブル時代には、大手メーカーが海外に生産拠点を移し、部品も現地で調達するようになった。超硬合金の加工は、メーカーから材料を支給してもらい加工賃を得るだけだったため、工場の拠点が移されれば加工案件は減る。
「悩む余地もなくねじ金型に絞っていくしかなかったでしょう。もし、柱が1本だったら、間違いなく会社は傾いていたと思います」と振り返る。
父である先代社長のころから、取引先のニーズに応じ、小径穴に特化した設備投資をしてきた。敬雄氏が入社した1993年には、業務はほとんどねじ金型1本に絞られていたそうだ。
「小学生のころ、祖父から聞いた言葉を今も覚えています」と敬雄氏は言う。
「モノづくり業界で、絶対になくならないのがモーターや。モーターにベアリングを固定するためにはねじがいる。だからねじの金型屋は絶対に必要なんや」
子ども心に「そうなんや!!」と思ったのが、事業継承した敬雄氏を支えている。
敬雄氏が代表を継いだのは、リーマンショックの2週間後だった……。一番キツかったときは、注文が前年の35%まで落ち込んだという。
社員には「ごめん……」としか言えなかった。休業もした。ボーナスも払えなかった。基本給だけは削ったらあかんと死守した。
金型はモノづくりの生命線だ。金型の発注先を変えるのは、先方にとっては大きな決断となる。だから、金型を納めたお客さんとは、信頼関係を築いて長い取引となるのだ。
逆に言えば、急な新規開拓が難しい。
だからといって何もしないではいられなかった。タウンページを見て、片っ端から飛び込み営業をした。1年間で100社ほど回ったそうだ。けれど、1社も新規は取れなかった……。
リーマンショック後、4年ほどかけて、取引先からのオーダーがジワジワと戻ってきた。
少しホッとした矢先に、今度は東日本大震災が起きた。再び、注文が途絶えた。「やっぱり、あれが一番こたえました」と敬雄氏。精神的にもキツかったという。
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