50万人の情報が流出した英国バイオバンクのインシデントでPETs利用は拡大するか海外医療技術トレンド(131)(2/3 ページ)

» 2026年05月15日 08時00分 公開
[笹原英司MONOist]

英国バイオバンクはクラウド型の「信頼できる研究環境」に完全移行

 英国政府は、2011年3月に英国内閣府が発表した「政府ICT戦略」(関連情報、PDF)の一環として、「政府クラウド(G-Cloud)戦略」(関連情報、PDF)を発表している。

 この流れを受けて、オンプレミス型のハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)システムからスタートした英国バイオバンクは、2021年に、米国企業のDNAnexus (関連情報)が開発/提供する解析基盤を組み合わせた研究分析プラットフォーム「UKB-RAP」をAWSのクラウド環境上に開設し(関連情報)、2024年よりクラウド環境上に完全移行してオンプレミス環境を廃止している(関連情報)。なお、DNAnexusもAWSも、米国CLOUD法(関連情報)の適用対象であるが、米英間では、同法に基づく「米国・英国間データアクセス協定(UK-US Data Access Agreement)」(関連情報)が、2022年10月3日より発効しており、双方にガードレール(保護措置)を設定されている。

 UKB-RAPの概要およびデータの越境利用に関連して、オーストラリアの共同研究チームが、2025年3月25日付のScientific Reports誌で「冠動脈疾患の遺伝子座を精密マッピングするための英国バイオバンクのクラウド型研究解析プラットフォームの最適化」(関連情報)を発表している。これによると、クラウドベースの解析環境であるUKB-RAPは、英国バイオバンクの膨大な全ゲノム配列(WGS)データを安全かつ効率的に解析するために設計された「信頼できる研究環境(TRE:Trusted Research Environment)」であると位置付けられている。そして、従来の「データをダウンロードして手元のサーバで解析する」手法が、データの巨大化により不可能になったことを背景に、スケーラブルなクラウド計算資源を提供するための技術インフラとして紹介されている。この手法は、データインシデントのリスクを低減するための解決策としても機能しており、データの物理的な移動を最小限に抑える仕組みとして説明されている。

 また同研究チームは、このプラットフォーム上での計算アーキテクチャを最適化するツール「RAPpoet」を活用して、コストを44%削減し、速度を94%向上したと報告している。さらに、クラウドプラットフォーム上でホストされるデータセットを使用する際の考慮事項として、スケーラビリティ、コスト効率および計算資源の適切な構成が議論されている。

 参考までに、前述のゲノミクスイングランドは、オンプレミス型の仮想デスクトップ(VDI)システムでスタートしたが、英国政府のクラウドファースト戦略の下で、英国発ソブリンクラウド企業「UKCloud」が提供するサービスをITインフラとして活用してきた。その後2022年10月25日のUKCloudに対する清算命令(関連情報)を経て、英国発ソブリンAI企業であるライフビット・バイオテック(Lifebit Biotech、関連情報)と連携しながら、主要システムをAWSのクラウド環境上に移行し、英国バイオバンクの「信頼できる研究環境(TRE)」と同様のコンセプトに基づくゲノミクスイングランドの研究環境である「Genomics England Research Environment」(関連情報)を構築/運用している。

ポストコロナ時代に進む英国保健安全保障庁とNHSの役割分担

 ところで、第85回で取り上げた英国保健安全保障庁(UKHSA、関連情報)は、公衆衛生/感染症/ゲノム監視/生物学的脅威対策を一体的に担う全英レベルの保健安全保障機関である。

 UKHSAは、2023年5月16日に「UKHSA科学戦略 2023-2033:健康と繁栄の確保」を発表している(関連情報)。この10カ年戦略は、UKHSAが専門家としての知見を活用し、科学を通じて公衆衛生の脅威に立ち向かい、国全体の健康と経済的繁栄を守るための指針となっている。

 この10カ年戦略に基づいてUKHSAは2024年1月24日、「UKHSA病原体ゲノム戦略」を発表している(関連情報)。この戦略は、今後5年間、感染症による公衆衛生上の脅威に対応するために、病原体ゲノミクスの活用へどのように投資し、どのように変革していくか、その方向性を示しており、表2に示す通り、主な戦略的目標および倫理的/法的/社会的課題(ELSI)の取り組みを提示している。

表2 表2 「UKHSA病原体ゲノム戦略」の戦略的目標と倫理的/法的/社会的課題(ELSI)の取り組み[クリックで拡大] 出所:UK Health Security Agency「UKHSA Pathogen Genomics Strategy」(2024年1月24日)を基にヘルスケア研究会作成

 その上でUKHSAは、表3に示す通り、病原体ゲノム戦略を支える主要ITプラットフォームの整備作業を進めている。

表3 表3 英国保健安全保障庁(UKHSA)の病原体ゲノム戦略を支える主要ITプラットフォーム[クリックで拡大] 出所:UK Health Security Agency「UKHSA Pathogen Genomics Strategy」(2025年8月7日更新)、「Pathogen genomic data sharing」(2025年8月7日更新)を基にヘルスケア研究会作成

 なお、英国バイオバンクやゲノミクスイングランドは、研究/医学発展のための基盤であり、自発的な参加者の「広範な同意(Broad Consent)」に基づきデータが収集されるのに対して、UKHSAは健康保護法に基づく「公衆衛生上の脅威に対する防衛/監視」という実効的な業務を担っており、公衆衛生上の緊急事態や監視目的で、個別の同意なくデータを収集/利用することが可能である。また、UKHSAのポリシーには、国家安全保障と国際貢献の観点から、国際的な監視ネットワークへのデータ提供が組み込まれており、学術研究の手順よりも公共の利益に重点が置かれている。

 他方、第85回で取り上げたNHSデジタルは、UKHSAの発足後、全国がん登録/分析サービス(NCRAS)の業務の移管を受けて、がん登録情報の匿名化管理、オプトアウト手続窓口などの運営などを行ってきたが、その後2023年2月1日に上部組織であるイングランド国民保健サービス(NHSイングランド)に統合された(関連情報)。NHSイングランド内では、変革局(Transformation Directorate)が、NHSイングランド全体のデジタル戦略/テクノロジー/データ活用を統括する機能を担っている。

 がん領域のナショナルデータベースに関連してNHSイングランドは、以下のような業務を継続的に提供している。

  • 全国の医療機関からデータを収集
  • データ項目/定義/ルールの標準化
  • 品質管理/バリデーション
  • 全国統計としての公開

 加えてNHSイングランドは、英国バイオバンクやゲノミクスイングランド、英国保健安全保障庁と同様に、研究者が安全にデータにアクセスできる「信頼された研究環境(TRE)」として、「セキュアデータ環境(SDE:Secure Data Environments)」の全国ネットワーク構築を主導している他、複雑な個人情報保護のルールを整理し、現場の医師や研究者が迷わずにデータを扱えるような「データ利用基準」の策定など、情報ガバナンス(IG)の簡素化に取り組んでいる。

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