筆者が中国に駐在し、プロジェクターの部品を設計する中国人の若者の技術指導をしていたときのことだ。その若者が設計した樹脂部品の金型が完成し、成形サンプルが送られてきたため、筆者はこの若者と一緒になってその部品の確認を行っていた。寸法や機能上の問題点や成形の不具合点を見つけ出すためである。
筆者はこの部品にバリが多くあることに気付き、「ここのバリをもっと小さくしてもらって」と若者に伝えた。部品に問題を見つけ、金型の修正や変更が必要な場合は、金型修正/変更依頼書にその内容を記載して、部品メーカーに連絡することになっている。
筆者はそのバリは問題であると認識したため、その「バリは小さくするのが筋(すじ)」と考えて、若者に「金型修正するべき」と伝えたのであった。ところが、この若者は次のように返答してきた。
この部品は、製品の中に取り付く部品だからユーザーには見えない。だから、バリの修正は必要ない。
確かにそれも一理あると筆者は考えたが、「バリはそのまま放っておくと、大きくなる可能性があるから金型修正して」と再度伝えた。しかし、その若者は「ユーザーには見えない」の一点張りで、最終的に金型修正には応じなかった……。
筆者はこの若者のことを、頑固者であり、樹脂成形のことをまだよく分かっていない、とそのときは思っていた。しかし、後から考えてみると、確かに1〜2年金型を使い続ければバリは大きくなるが、それはとても微小でありプロジェクターの内部で何か問題を起こすとは考えづらい。だが、筆者の頭の中では、「そもそもバリは小さくするのがすじ、金型修正するべき」が当たり前であったため、それを若者に押し付けていたのだ。
一方、この若者には「バリはユーザーには見えなく、(製品は)使えれば問題ない」という考えが根底にあった。要するに、日本人の「そもそも・すじ・べき論」と中国人の「使えれば問題ない」の戦いといえる。“戦い”と表現するのは大げさかもしれないが、この考え方の相違は、日本人と中国人がお互いに相いれない大きな違いだといえる。
筆者を含む日本人は「せっかくやるのだったら何事もより良くしたい」と考えると同時に、「これまでやってきたことを今回もやれば問題はきっと起こらない」という気持ちがある。ただし、この場合、多額の追加費用や大幅な日程の遅れが生じないことが前提だ。
しかし、中国人にとって、この日本人の「そもそも・すじ・べき論」は理解できるものではなく、「一体何を言っているの?」という雰囲気さえも感じる。
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