倒産寸前の大ピンチからV字回復、ICT活用で復活した紳士服メーカーの戦略イノベーションで戦う中小製造業の舞台裏(6)(2/6 ページ)

» 2016年02月26日 07時00分 公開
[松永弥生MONOist]

最盛期には140社が軒を並べた「紳士服の町」

 かつての谷町は「紳士服の町」だった。明治政府が「これからは着物ではなく洋服の時代。軍服が必要となる」と、船場で生地を扱い、緑橋や森ノ宮で作り、谷町で売るという具合に「繊維の町、紳士服の町」の基盤を作った。

 それが昭和まで連綿と続き、大阪を南北に貫く谷町筋には、老舗の大手メンズスーツメーカーがひしめき、最盛期には約140社の紳士服店が軒を並べたという。

 川辺社長の祖父である川辺友一氏は、丁稚奉公で学んだ生地の知識をもとに40歳で独立起業した。1952年のことだ。友一氏は、商材を黒生地に絞った。黒なら流行がなく、在庫が残っても売ることができる。ターゲットを絞り他社との差別化を図ったのだ。

※商店などに幼少のころから奉公すること

 1965年には、紳士礼服製造卸のエルマンを設立し、生地屋からアパレルへと業種を広げた。礼服やダブルフォーマル、冠婚葬祭用のスーツなどを扱う同社は、高度成長期の波にのり、業界No.2のシェアを誇った。

 しかし1990年代になると、アパレル業界に紳士服量販店が誕生し、チェーン店展開で低価格帯スーツの販売を始めた。安価な中国産の紳士服が大量に流入し、紳士服の価格破壊が起きた。このビジネスモデルが、消費者の支持を集めて急成長を遂げた。

 その影響で紳士服メーカーは大打撃を受けた。総合スーパーのマイカルが倒産した2001年前後は特に厳しく、谷町にある多くの紳士アパレルメーカーが連鎖倒産や廃業を余儀なくされた。今では、谷町に存続する紳士服メーカーは数社になっている。

 川辺社長が家業を継いだのは、そんな時だったのだ。

※大阪市に本社を置き全国各地に総合スーパーなどを展開していた総合小売業者。2011年3月1日にイオンリテールが吸収合併した。

大阪市谷町にあるNFLの縫製工場「Tanimaci NUBO」。谷町に残る数少ない縫製工場の1つだ

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