力織機を開発した織機製造業者は紡績機械を国産化し、工作機械を作り、さらには自動車産業にまでその範囲を拡大し発展していった。
表1に日本における織機の主な開発状況を示す。1890年の豊田佐吉による木製人力織機の発明の後、松田繁次郎や鈴木政次郎による足踏織機が開発され作業効率が向上した。また1896年、日本初の力織機である豊田佐吉の「豊田式汽力織機」が発明され、翌年の1897年には津田米次郎が動力織機を試作し、蒸気機関による動力化が本格的に推進された。これら豊田佐吉や津田米次郎による動力織機の開発は日本の紡績機械の国産化に大きく貢献した。これらの技術は遠州織機、須山式織機、鈴木式織機などの工作機械への展開、さらには豊田自動織機あるいは鈴木式織機からの自動車工業への展開につながっていくのである。
ここで、記事末に掲載した参考/引用文献の6.から引用した、初期の力織機開発の事例を幾つか見ていこう。
以上、初期の織機の特徴を要約すると次のようになるだろう。まず、形状構造は小幅木鉄混製で、その大きさは、寺沢式は長さ5尺に幅3尺3寸、高さ2尺2寸(15×1×0.66m)。五百川式絹織機(木鉄混製)の寸法が1.9×1.2×0.9m、また結城の足踏織機の寸法が1.3×1.1×0.9mであることから、これら寸法がほぼ当時の標準外形とみてよいだろう。
性能は1日10時間として3~5反の織り立てで、織子1人につき2~3台受け持てるから、職工1人当たりの生産性は平均9反/1日前後で、この数値は三瓶孝子が「日本機業史」で示している動力織機の性能(9反/1日・1人)とほぼ一致する。価格は最も早い時期の渡辺・柴田兄弟のものが70円でやや高く、その他の実普及の製品は20~30円前後であった。
新技術を導入し、これを改良普及し、さらに創造的新技術を生み出していく一連のプロセスを達成するためには、導入した新技術と、それまでの在来技術との間に技術発展上の連続性が必要である。特に、スムーズな技術移転、改良、普及を進めるには在来技術との間に共通部分の存在が重要だ。また、技術発展の連続性は、在来技術と導入新技術との間にある中間レベルの技術が極めて重要な役割を果す。
図2は、1890年頃に英国ランカシャーで製造されたランカシャールームである。英国の博物館に保存されていたものをトヨタ自動車が譲り受けてトヨタ産業技術館に展示したものだ。
連載第4回で述べたように、最初の機械動力式の織機は、1785年に英国人エドモンド・カートライトが特許取得して製造したパワールーム(power loom、力織機)である。1820年にはロバーツによって、近代的な動力織機の姿として完成された。その後、1850年代に繊維産業が栄えていた英国では、25万台の動力織機が稼働していたといわれる。1850~1900年に、英国の絹業の中心地はランカシャー地方で、そこで数多く使用されていたのでランカシャールームと呼ばれる動力織機だった。
日本で最初に工場規模で動力織機が使用されたのは、1867年に薩摩藩が開設した鹿児島紡績所であり、英国から100台を輸入して蒸気機関で稼働させた。その後の1887年以降、大阪織布をはじめとする、大資本の紡績兼営会社が動力織機を導入したが、小資本がほとんどの織布専業者は依然として手織機に頼っていた。このように、19世紀末の日本では木製の手織機であったのに対し、全鉄製で動力化され、緯(よこ)糸切断自動停止装置などを備えていた。これらの自動力織機は1890年頃に製造された。
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