就職後に配属されたのは、栃木県宇都宮市にある航空宇宙カンパニーのプロジェクト部門。入社後、2004〜2007年の間、ここで航空機の設計解析や評価試験に携わった。小川さんは当時を思い起こし、「大企業だけあって、社会にインパクトを与える大きな仕事に関われた。しかも、航空機の設計という自分の好きな仕事に専念でき、やりがいが感じられた」と語る。
一方、働いているうちに、大企業に勤めることの欠点も感じ始めたそうだ。「よかれと思って、上司から指示されていない仕事を自発的にやると、『それはお前の仕事じゃない!』と怒られる。会社独自のやり方やルールが強過ぎて、社会人としての一般的なスキルというよりも、会社内でのみ通用するようなローカルスキルが身に付きがちになる。会社独自のやり方に染まっていく自分に不安を覚えた」(小川さん)。
他にも、「仕事の規模が大きいと、自分が携われるのはほんの一部分。プロジェクトが成功したとしても、自分の貢献度は極わずかだ。一方、小さな仕事の場合、社会へのインパクトは小さいが、『自分の力でやり遂げたんだ!』と大きな達成感が得られる。だが、大企業では小さな仕事は手掛けさせてもらえない」と、エンジニアとしての葛藤を持つようになった。
小川さんが悩んでいたのは、自分のことだけではない。「私は社会人2年目、25歳の時に結婚。社会人3年目に子どもができたのをきっかけに、自分の家族について真剣に考え始めた。自分以外に実家の町工場は後継者がいない。今は栃木県で働いているが、このままだと東京の両親の世話ができない。妻と子も実家に残したままだ。家業の行く末、父母の老後、子育て、どうしよう――」。
悩んだ結果、小川さんが出した答えは、家業を継ぐことだった。しかし、当時の小川製作所はバブル崩壊の余波もあり、経営が大いに悪化。小川さんの父が1人で奮闘していたが、仕事がない状態が続いていた。小川さんは「このときの自分には、どう仕事を取ってくればいいのか、全く分からなかった」という。だが、決して諦めなかった。自分自身の問題を真っ向から受け止め、他社で修行してみようと思い立ったのだ。この時、小川さんは自身の苦境を「未来へのチャレンジ」と前向きに捉えていた。
小川さんが修業先に選んだのは、最新の工作機械を使用した切削加工が専門のC社。社員20〜30人の小さな会社だ。同社では、5軸加工機14台を含むマシニングセンタ26台と、NC旋盤4台、放電加工機10台、3次元測定機3台を駆使し、半導体や航空機、医療機器メーカーの試作開発品や少量生産部品を手掛けていた。「この規模でこれだけのNC機械を使いこなしている町工場はそう多くない」。小川さんはC社の社長に事情を説明し、修行させてもらうことになった。
C社での最初の2年間(2008〜2009年)は、製造の補助、部品の仕上げ、検査など、作業員として油にまみれて働いていた。だが、小川さんが入社して間もなく、リーマンショックが起きる。C社の業績はその翌年、前年度の4分の1にまで縮小し、損益分岐点を大幅に下回った。「もはや現場作業だけをやっていられる状況ではない」。そこで、小川さんは「営業面から経営改革を行うべきだ」と社長に進言。営業技術課長という役職に就任した。それは入社3年目、2010年のことだった。
営業技術課長としての仕事は、営業業務、経営戦略の立案、製造補助、新規開拓、新規事業の模索など、多岐にわたる。そのため、小川さんは多忙を極め、1日の労働時間が12〜16時間まで跳ね上がった(作業員時代はほぼ定時で帰っていた)。小川さんは、「この時は会社の存亡がかかっていたので、寝る間も惜しんで仕事をしていた。誰かから指示されたわけではなく、自身で“自己ブラック化”の道を選んだ。この時、会社を支えているのは自分だという責任感を強く感じていた。それだけでなく、今後どうなるか分からないというスリルの中で、先行き不透明な未来を切り開いていくことを楽しんでいた」という。
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