設立当初は青色LED用窒化ガリウムウエハーの輸出事業で売り上げの確保を目論んでいたが、半導体不況のあおりと青色LEDの過剰供給でウエハーの価格が大幅に下落し、事業として成り立たなくなっていた。だが15億円という資金が本質を見極める目を曇らせた。
「当時は、実質よりも会社としてのカタチを整えようとしていた。まともな売り物がないのに営業の部隊がいたり、上場しないといけないと考えたり、有名な監査法人にお願いしたり、証券会社のOBや大企業の取締役を監査役に依頼したりなど、無駄なことにお金を使っていた。製造業はとにかく『売れるものを作る』ことをやらなければいけないのだが、そんな本質まで分からなくなっていた」(村本社長)。
青色LED用窒化ガリウムウエハーに替わってリソースを集中させた紫外線LEDも、発光効率は1%未満となかなか向上せず、明るいはずの未来に暗雲が立ち込める。そんな中、2002年6月に酒井教授が脳梗塞で倒れ、社内のバランスが崩れた。村本社長に異を唱える者が現れ、酒井教授の教え子だったドクター(博士号を持つ)の技術者が見解の相違を理由に退陣していった。「この時はさすがに正直あきらめた。しかし、やめられない。取りあえずお金が底をつくまでは何とかしようと。そういう意味では資金はたくさんあった。残ったメンバーでやっていくことにした」(村本社長)。
それまで3交代勤務体制で365日24時間装置を動かし、原材料も湯水のように使っていた。だが、酒井教授が倒れてからそれをやめた。装置を動かしていいのは1日1回昼間だけ。それまでは当たり前に行っていた土日や夜中の稼働も禁止した。
「それまで根性論でやってきて、24時間稼働してますというのを言い訳にしていた。そこには『結果を出せばいい』という当たり前の発想がなかった」(村本社長)。
1日1回の結果を出せばいいだけ。ただし1日1回しかチャンスがないから、その貴重な1回にどんな条件を振るか、というのを真剣に考えるようになった。また、出てきた結果をしっかり観察するようにもなった。「24時間フル稼働していたころは、どの条件が効果あったのか、実は自分たちも分からなくなっていた可能性が高い」(村本社長)。
研究の世界では当たり前だったドクターとオペレーターの分業体制もなくなった。24時間体制の時、ドクターが考えた条件を実際に装置に反映していたオペレーターは、地元の阿南工業高等専門学校(阿南高専)を卒業したばかりの若いエンジニアだった。「実際に手を動かしていたのは阿南高専卒の若手技術者で、ドクターは装置を監視するスーパーバイザーの役割。結局彼らドクターは本当の意味で観察できていなかった」と村本社長は振り返る。
ドクターの退陣でオーバーヘッドが外れ、現場の若手技術者が条件も考えるようになってから、紫外線LEDの発光効率は徐々に向上していった。若手技術者の中にもドクターがいなくなったタイミングで離れていった人もいた。結局、残ったのは機転のきかない要領の悪い技術者だけだったという。「ドクターを持っている技術者はすごく頭がいい。技術的な話をさせると見事に論理を展開する。優秀だなと思うけど、会社に残ったのはその真逆の人。でもそういう人たちが地道にコツコツと実験を繰り返し、高効率の紫外線LEDを作り上げていった」(村本社長)。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.