本連載では、エンジニアとして歩んできた筆者の50年の経験を起点に、ものづくりがどのように変遷してきたのかを整理し、その背景に潜むさまざまな要因を解き明かす。同時に、ものづくりの環境やひとづくりの仕組みを考察し、“ものづくりをもっと良いものへ”とするための提言へとつなげていくことを目指す。
新連載を始める。失われた30年、日本のものづくりは絶対的にも相対的にも低空飛行が続いているように思われる。
筆者の技術者人生を振り返り、この50年でものづくりがどのように推移してきたかを、開発側の視点を中心に整理し、そこに内在していた(当時は気が付かなかった)さまざまな要因を明らかにする。特に、ものづくりの環境や、ひとづくりの仕組みについて考える。これらを通して、“ものづくりをもっと良いものへ”とするための提言につなげたい。
連載第1回は自己紹介を兼ね、エンジニアとしての50年を一通り紹介する。詳細は第2回以降で順次解説していく。図1に50年の大まかな変遷を示す。
注:「モノ」「もの」の表記について、本稿では「モノ:生産要素または経営資源といった手段」「もの:生産活動により付加価値を持った成果物」と使い分けて表記しています。また、「人」「ヒト」「ひと」の表記については「人:一般的」「ヒト:生物学的」「ひと:人間的(ものとの対比)」と使い分けています。
大学では機械工学を学び、修士/博士課程では非線形振動の応用数学的解法に関する研究に取り組んだ。当時の研究開発環境を思い出すと、机にはPCなどあるはずもなく、置かれているのは参考書、英語の辞書、参考文献。他には、計算用の計算尺と、考えていること(特に理論式)をメモするためのノートがある程度だ。
計算尺はやがて電卓、そして関数電卓へと置き換わっていった。ただし、当時の関数電卓は1台20万円以上もする高価なものだった。ワープロはまだなく、英文論文は手動タイプライターが使えたが、和文論文は手書きでの提出しか受け付けてもらえなかった。図表は英文/和文を問わず手書きで作成し、解析結果をグラフにプロットする際も、結果を書き写す過程で多少の誤差が生じるのはやむを得ないという状況だった。
英文論文を本格的に書くようになってからは、IBMの電動タイプライターが登場し、きれいに、そして早く作成できるようになり、大いに助かった。ただ、このような状況であったため、博士論文は全て手書きで、製図用のペンを使って作成した。
式を解く際には、大型計算機(当時の性能は現代のPC以下)を使用した。
使い方を簡単に説明すると、まず、式と結果をプロットするためのコードを、パンチャーでパンチカード(横長の厚手の紙)に1行80文字分(有効72文字)打ち込み、小さな四角い穴を開ける。これを計算式の行数分だけ作成する。多くの場合、数千行に達したため、作成したパンチカードを箱(容量2000枚)に詰め、計算機センターに持ち込み、所定の手続きで担当者に渡す。後は、計算が終わるまで待つか、翌日取りに行き、分厚い紙の結果を持ち帰る。そして、研究室で計算結果から必要な箇所を読み取り、紙にプロットして結果を評価する――という手順で使用していた。
今から考えると、計算という行為が非常に大変だったため、かなり慎重に研究を進めていたようにも思う。
企業では、総合電機メーカー(今ではもう死語になっているが)の総合研究所の機械部門に配属された。最初の仕事は高速回転体の振動問題で、数万回転の定格運転付近で突如発生する破壊振動問題だった。なかなか解決できずにいたところへ筆者が入社し、実力試しとして話が回ってきたのだと思われた。
早速、固有振動数を調べたところ、多くの振動モードが確認され、当然ながら定格近辺にも存在していたが、これらの振動数は回転数よりもはるかに低かった。そこで、和差を考えると説明できそうだったため、曲げ振動の和差型係数励振振動であると判断した。これは大学時代に研究していた内容そのものであり、計算も検証も行ったが、結局は原因を特定できなかった。
その後、和差型の係数励振振動であること自体は正しかったものの、曲げ間の和差型ではなく、曲げと他のモードとの和差型であることが判明した。大学での研究が役に立ったともいえるが、曲げの和差型しか研究していなかったため、この思い込みが災いとなり、入社早々、良い教訓となった。
大学時代は研究で扱ってはいたものの、実際にこのような現象が発生することはなく、単なる研究のための研究だと思っていた。それだけに、これが実際に存在することを知ったときは驚かされた。おそらく、このようなことは多く存在すると考えられる。大学での研究成果をものづくりにつなげるためには、何らかの仕組みや、双方を橋渡しする役割を担う組織が必要だと考える。
その後の約10年間は原子力関連の業務が多く、海外の原子力発電所を訪問する機会もあり、大変勉強になった。一方で、原因解明のための仕事も多く、一種探偵のような感覚で、うまく解明できたときの喜びはひとしおだった。しかし、解明できないまま終わる場合もあり、まさに実力が試される試金石でもあった。なお、原因解明のために仮説を立て、式に起こして計算する際に使用していた大型計算機は、大学時代と同じものであった。これを休みの日などに一人で占有して使っていた。
その後はVR(仮想現実)の研究に取り組み、実際に3次元像(動画)が見える装置や、粘土をこねるように形を作るVR-CADなどを開発した。このころが、初めて研究所らしい仕事をしていた時期だった。
当時は設計研究グループを立ち上げてもらい、VR以外にも事業部向けの設計支援ツールを開発した。ただ、こうした成果が引き継がれずに終わってしまったのは残念である。
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