豊田佐吉の歩みを明治初期の日本と世界の自動車技術の発展から浮かび上がらせるトヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(5)(3/5 ページ)

» 2025年03月11日 08時00分 公開

ダイムラーの二輪車ライトワーゲン、ベンツの三輪自動車が登場

 1877年(明治10年)、地租の税率を3%から2.5%に引き下げた。この年、反政府勢力最大の西南戦争が勃発。この戦争で政府は、戦費調達のために大量の不換紙幣(金や銀と交換できない紙幣)を発行しまくったため、インフレーション(貨幣価値を下げ、物価を上げる)が起き、政府の財政は苦しくなった。そのため、当時の大蔵卿である松方正義が、酒税など増税により税収を増やすとともに、歳出を削減し、デフレ(貨幣価値を上げ、物価を下げる)政策をとる。東京大学創設。

 1878年(明治11年)、政府は国内産業の保護と政府歳入の増加を目的として関税自主権の回復を目指した。米国と改正交渉したが、途中で断念、失敗。

 自動車関連では、英国人ダガルド・クラーク※22)が、クラーク式2ストロークエンジン※23)を製作。その後1881年に英国特許を取得しており、オットー型4ストローク機関と競合する売れ行きを見せた。

 1879年(明治12年)には、カール・ベンツ※24)が、高信頼の2ストロークガスエンジンの特許を取得した。これはオットーの4ストローク機関の設計に着想を得たものだ。

※22)ダガルド・クラーク(Dugald Clerk、1854〜1932年)は、英国グラスゴーで生まれた技術者。1878年に世界で初めて成功した2ストロークエンジンを設計し、1881年に英国で特許取得。グラスゴーのアンダーソン大学(現在のストラスクライド大学)とリーズのヨークシャー科学大学(現在のリーズ大学)を卒業。ジョージ・クロイドン・マークスとともに、マークス&クラークという知的財産会社を設立。1917年8月24日にナイトに叙せられた。

※23)2ストロークエンジン(two-stroke cycle)は、一般的にはピストンが1往復(上昇する間に排気と吸気の圧縮を行う上昇行程と燃料の燃焼(爆発)によりピストンが下降し、その後半で排気を行う下降行程の2つの行程)で1周期を完結するエンジン。クラーク式2ストロークエンジンは、デュガルド・クラークが最初に製造した2ストロークのガソリンエンジンで、エンジン本体外部に独立したシリンダー式の圧縮装置/掃気装置を装備して4ストロークエンジンの圧縮行程に代えたもので、4ストロークエンジンに比肩する性能を出せたが、4ストロークエンジン同様に専用のバルブを設ける必要があり、構造がやや複雑で、掃気機構のフリクションロスもあった。

※24)カール・フリードリヒ・ベンツ(Carl Benz:本名カール・フリードリヒ・ミヒャエル・ヴァイヤント、1844〜1929年)は、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州カールスルーエのミュールブルクで生まれたエンジン設計者、自動車技術者。ベンツパテントモトールヴァーゲン、最初の実用的な近代自動車、量産された最初の自動車と考えられている。1886年にこの自動車の特許を取得。同年、ベンツパテントモトールヴァーゲンを初めて公に運転。ドイツのマンハイムに拠点を置く彼の会社のベンツは、当時としては世界初の自動車工場で、最大の工場であった。1926年にダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトと合併してダイムラー・ベンツが設立され、メルセデス・ベンツをはじめとするブランドを生産。ベンツは「自動車の父」、同時に「自動車産業の父」とされる。

 19世紀後半(明治時代半ば)は、国会の開設に向け、憲法制定の準備が行われる。明治政府は殖産興業を進める。

 1881年(明治14年)、秋田事件※25)から始まり1886年(明治19年)の静岡事件※26)まで、全国各県で「自由民権運動」が巻き起こる。大隈重信が政府から追放されて失脚、大隈財政は終了。失脚後、大蔵卿の松方正義による増税と緊縮財政(軍事費以外の歳出を徹底的に減らす)の松方デフレで不況が発生。

※25)秋田事件は、自由民権運動が激化していた1881年に起きた、秋田県の自由民権結社である秋田立志会が立てた蜂起計画に端を発する一連の事件。自由民権運動の中で最初の蜂起計画とされる。

※26)静岡事件は、1886年(明治19年)、自由民権運動の中、静岡その他で発生した激化事件。自由党の壮士らが明治政府転覆、高官暗殺を企て、約2年間にわたり軍資金調達のための強盗を行い、逮捕処罰された。

 1882年(明治15年)、軍人勅諭。紙幣(銀行券)を発行できる唯一の銀行である日本銀行が設立され、1885年(明治18年)以降、中央銀行である日本銀行のみが銀兌換(だかん)銀行券を発行する銀本位制を採用。長崎造船所の三菱への払い下げなど官営事業の払い下げが推進された。

 1883年(明治16年)、陸軍大学校開設。鹿鳴館開館。自動車関連では、ドイツのゴットリープ・ダイムラーが霧吹き型のキャブレターを備えた(液体燃料で動く)4ストロークガソリンエンジンを発明した。1885年に特許取得。

 1884年(明治17年)、群馬事件、加波山事件、秩父事件。華族令公布。甲申政変。

 1885年(明治18年)、大阪事件、銀本位制、天津条約(日清)、内閣制度が発足。自動車関連では、ゴットリープ・ダイムラーが図7に示すように二輪車にガソリンエンジンを取り付けたクルマであるライトワーゲン※27)を製作した。一方、カール・ベンツは図8に示すように独自の4ストロークガソリンエンジンを搭載した三輪自動車※28)を製作。翌1886年(明治19年)に特許取得。

図7 図7 1886年ゴットリープ・ダイムラーのガソリンエンジンを取付けた二輪車ライトワーゲン[クリックで拡大] 出所:GAZOOZuttoRideコラムを基に加筆製作
図8 図8 カール・ベンツの4ストロークガソリンエンジンを搭載した三輪自動車[クリックで拡大] 出所:Wikipediaより、DaimlerChrysler AG, CC BY-SA 3.0、ウィキメディア・コモンズ経由で(同画像を基に加筆製作)

 この1886年(明治19年)、豊田佐吉が18歳の時、隣村の新所小学校の佐田先生から「専売特許条例」※29)の公布内容を聞き、「世の中に役に立つ発明をすれば、国が豊かになり、自分も利益を得ることができる」と、発明への志を立てる。翌年の1887年(明治20年)、大工の友人である佐原五郎とともに東京見物に行き、近代的工場の機械類などを見て官営の横須賀造船所にも立ち寄り、機械を動かす動力源に興味を持つ。

※27)ライトワーゲン(Reitwagen)は、1885年にゴッドリーブ・ダイムラーが発表した車両(世界で最初のバイクと言われる、図7はレプリカ)。エンジンは264ccの4ストローク単気筒エンジン、フレームは木製。サスペンションのような緩衝装置はない。YouTube映像「Reconstitution 3D : tour Eiffel et Exposition Universelle」の10分50秒〜11分02秒で詳細を確認できる。

※28)ベンツの三輪自動車は、ベンツパテントモトールヴァーゲン(Benz Patent Motorwagen)と名付けられ、世界で初めて量産された自動車である。排気量は984cc、水冷単気筒エンジンの出力250rpmで500W。時速16kmで走行。重量は約100kg。オープンクランクケース(クランクがむき出し)と滴下給油システム、排気用のプッシュロッド操作のポペットバルブを使用。大きな水平フライホイールはエンジンの出力を安定させた。蒸発式キャブレターはスリーブバルブによって制御され、出力とエンジン速度を調整した。最初のモデルにはキャブレターは搭載されず、燃料を含んだ繊維の容器から蒸発によってシリンダーに燃料が供給された。YouTube映像「トヨタ博物館  世界初のガソリン自動車〜ベンツ パテント モトールヴァーゲン」で詳細を確認できる。

※29)専売特許条例とは、1885年(明治18年)に制定された「発明にかかわる物等の独占的販売権に関する官許」のこと。この条例は、現在の特許法の前身で、発明品の販売権だけでなく製造権等の独占権に関わっている。欧米の特許制度を調査した高橋是清が起草したもので、高橋自身が初代の専売特許所所長を務めた。

 1887年(明治20年)、保安条例。

 1888年(明治21年)、枢密院創設。海軍大学校開設。磐梯山噴火。日墨修好通商条約締結。市制・町村制が公布。

 1889年(明治22年)、「大日本帝国憲法」が制定され、国内の民権派のみならず海外からも注目され、高い評価を得た。皇室典範制定。衆議院議員選挙法、貴族院令などを公布。市制・町村制が施行開始。同時期に、商法、民法、刑法などの基本的な法律も制定され、日本は欧州と同様の近代的法治国家となった。

 一方、自動車関連では、英国人ジョゼフ・デイ※30)が現在の形のシンプルなデイ式2ストロークガソリンエンジンを発明した。図9に示すように、1889年の第4回パリ万博博覧会※31)に出展したアルマン・プジョーが、レオン・セルボレと共同設計しプジョー初の蒸気エンジンを搭載した3輪車※32)を4台製作し、自動車製造業を始めた。

図9 図9 1889年パリ万博博覧会会場とプジョー初の蒸気エンジン搭載三輪車[クリックで拡大] 出所:L’Art NouveauPEUGEOT 長崎

※30)ジョゼフ・デイ(Joseph Day、1855〜1946年)は、英国ロンドンで生まれた発明者。芝刈り機からモペット、小型オートバイなどの小型エンジンに使われる、極めて広く使われたクランクケース圧縮式2ストロークガソリンエンジンを開発。特許第6410号取得。先行して開発された各種のガソリンエンジンの特許回避を目的として、この単純なエンジンは「省略できる部品は全て省略し、4ストロークエンジンでは分離して完全に行われていた各行程を、効率を犠牲にして統合/簡略化した」ことで実現された。気筒頭の点火プラグを除いては、ポペットバルブすら持たない簡潔な構造故に、絶対的な効率以上に軽量/簡易性が要求される小型2ストロークエンジンの完成形となった。

※31)1889年パリ万博博覧会(Exposition Universelle de Paris 1889、Expo 1889)は、1889年5月6日〜10月31日にフランスのパリで開催された国際博覧会。この万国博覧会の最も印象的なシンボルは、A.G.エッフェルが設計した高さ312mのエッフェル塔とシャン・ド・マルスの端にある、デュテルトとコンタマンが建設した幅115m、高さ45m、長さ420mの巨大な機械展示室だった。YouTube映像「Reconstitution 3D : tour Eiffel et Exposition Universelle」で1889年の万国博覧会の3D再現CGを確認できる。

※32)プジョー初の蒸気エンジン搭載の三輪車は、1889年のパリ万博博覧会に出展され、レオン・セルポレと共同設計/製作され、フラッシュボイラーと2気筒スチームエンジンを後方搭載し、プジョーセルポレと名付けられた。翌年1月、テスト走行し、セルポレのボイラーは好調で、三輪車は走り始めるが、鋼管フレームが蒸気機関の重さに耐えきれず、走行中にあらゆるパーツが壊れた。ブレーキが利かなくなり、フロントフォークやリアアクスルが破断。路上で修繕を繰り返しながら走り続けた結果、約500kmのテストラン後は130kgも重くなった。結局失敗となり、蒸気機関の搭載を諦めている。

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