祖業を継承する日立インダストリアルプロダクツが目指す“素敵なモノづくり”日立の新成長エンジン「コネクティブ」の全貌(2)(2/3 ページ)

» 2024年11月29日 07時00分 公開
[朴尚洙MONOist]

産業機械の営業一筋から迎えた3つの転機

MONOist 日立に入社してからのキャリアについて教えてください。

小林氏 1983年に営業本部配属で入社してから約20年、産業機械の営業一筋だった。2000年ごろに産業機械の海外営業活動を強化する方針になり、2002年に米国のニューヨークに派遣された。日本で作ったものを輸出して海外で売るという体制を構築するためのインキュベーション的な役割を期待されていた。この時期に、日立の海外向けで成果が出始めていたのが鉄道用の電気部品で、特に英国では大きく伸びて現在の日立の鉄道事業の基盤になっている。私が派遣された米国市場でも鉄道用部品の販売拡大の期待はあったが採用に結び付かず、成果が出ている英国にリソースを集中することになった。その一方で、再生可能エネルギーとして注目を集め始めていた風力発電システム向けでの採用は進んだ。米国ではいいことも悪いことも含めてさまざまな経験ができた。

日立インダストリアルプロダクツ 取締役社長の小林圭三氏 日立インダストリアルプロダクツ 取締役社長の小林圭三氏

 私が米国にいる間に国内で産業機械を扱う体制が変更になり、日立プラントテクノロジーの管轄になった。その新しい体制になってから国内に戻り、今度は日立プラントテクノロジーの管轄から外れていた電力分野向けの発電機などコンポーネントの営業強化を任された。その後2013年に、日立プラントテクノロジーで扱っていた産業機械と私が担当していた電力分野向けのコンポーネントはインフラシステム社の下に統合されることになる。

 このとき日立の産業分野の全てのプロダクトを一つの組織で扱うことになったわけだが、そこで課題になったのが収益を出せる強いプロダクトを見極めることだった。営業という仕事は、とにかくプロダクトが売れさえすればそれでOKという考え方がある。しかし、事業としての競争力を考えると各プロダクトのコスト構造から何から見極めて収益力を高めなければならない。2014年4月に立ち上げたインダストリアルプロダクツ戦略本部では副本部長に就任してこの見極めを行った。2015年5月にはこれら産業分野のプロダクトを扱うインダストリアルプロダクツ社が発足し、COOに就いて強いプロダクトの見極めを続けた。

MONOist 産業機械の営業一筋から、米国派遣、インダストリアルプロダクツ事業の強化という2つの転機があったわけですが、この後さらなる転機を迎えたそうですね。

小林氏 2016年4月に、日立内のさまざまなBU(ビジネスユニット)やパートナーをデジタルソリューションでつなげてスマートシティーなどの社会イノベーションを実現するアーバンソリューションBUのCEOに就任した。事業内容としては、現在の日立の業績をけん引している「Lumada」に近いもので、それまで専念してきた産業機械やコンポーネントといったプロダクトの営業とは全く異なる経験をすることができた。現CIセクタートップの阿部(淳氏)との接点ができたのもこのときだった。

 そこから2018年4月にインダストリアルプロダクツBUにCEOとして戻って事業構造改革を進め、2019年4月に分社化した日立インダストリアルプロダクツの社長に就任し、現在に至っている。

MONOist インダストリアルプロダクツ事業の構造改革ではどのような苦労があったのでしょうか。

小林氏 1910年の電動機の開発から始まった日立の産業分野の事業は、茨城地区に点在するさまざまな工場で作ったプロダクトを、ある意味“One Hitachi”で営業本部が売ってきたという歴史がある。円高が進んでいく中では海外展開を進めるなど事業環境は変化していったが、営業窓口が一つであるが故にある意味のどんぶり勘定が許されており、これが大企業病のような状態を生んでいた。

 だからこそ、インダストリアルプロダクツ事業の強化を進める中で低収益事業の見極めや切り分けを行い、取り扱うプロダクトも大幅に減らすことになった。事業やプロダクトを止めることはつらいが、変わらなければならないタイミングだったと考えている。

 しかし、日立インダストリアルプロダクツの分社化によって事業構造改革をさらに進めることで、強いプロダクトへの選択と集中が進み収益を生み出す体制ができつつある。そして、この強いプロダクトを中心にデジタルでつなげた新たなソリューションをLumadaで生み出すという絵を描けるようになってきた。

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