では、「AUTOSARに対する期待は何か?」の議論が、なぜ尻すぼみになってしまうのでしょうか。
「期待について考えろといわれても……」とお困りの方は少なくないでしょう。言われて比較的簡単に思い付くくらいでしたら、既に「AUTOSAR導入でこのような効果がある」という記事などがあふれているでしょうから。しかし、そういった書き物、少なくとも、日本語で書かれたものは見かけたことがありません。どうやらそんなに簡単な議論ではないようです。
ところが、欧州では多くの方々がAUTOSARに対する「期待」を口にします。ですから、「期待すべきことはない」というわけでもなさそうです。いったい、どういうことなのでしょうか。
あるとき思い当たったのが、以下の3点に縛られすぎているのではないか、という疑念です。
もちろん、これだけではないでしょう。しかし、このような窮屈な枠の中に、自らすっぽりはまりこんでしまっていたとしたら、「期待」を見いだすことは一層難しくなると思いますが、いかがでしょうか。意図するか否かに関わらず、これらの制約に縛られていたとしたら、きっと以下のような状況に陥ってしまうことと思います。
では、どうやって、抜け出したら良いのでしょうか。
実は、次のたった一言で解決したことがありました。
「ひょっとして、自力で解決できる制約の範囲だけで『期待』を見つけようとしていませんか?」
「自力で」という制約の壁が取り払われたとき、先に少し出てきたような「愚痴」は「期待」に転化する可能性があります。さらに解決や実現にまで持ち込めれば、それは立派な昇華です。
先に、A.〜C.の3つの点に縛られすぎているのではないかという疑念を述べましたが、追加でもう1つ思い当たった点があります。
これは、先述のC.の派生でもあります。
まずは愚痴からで構いません。以下のような「〜たら/れば、○○できるのに……」ということが思い浮かんできませんか。
※2)たとえ、それが某アニメキャラクターの不思議なポケット以外からは出てきそうにないものであったとしても。マジックは、タネを知っている人にとっては魔法ではありません。もしかしたら、どこかにタネを知っている人がいるかもしれませんから、思い付いたことは何であれとても大切です。
でも、これらは制約の問題さえ解消されれば、立派な「期待」になりますよね。
AUTOSAR導入に挑戦してみたことがあるか否かは関係ありません。
AUTOSARがその「期待」を実現できるようになっているか否かも関係ありません。
従来実現できたか否かも問題ではありません。
まずは、「○○したい」ということそのものの洗い出しが必要なのです。実現性や手段はその後で考えましょう。見えかけている結論に安易に引き寄せられてしまったり、それに向かって急ぎすぎたりしないこと、これが重要です。
さらにもう1点追加させてください。
これも、先述のC.の派生ですね。
AUTOSARという新たな標準が持つ可能性、それを自らの理解の範囲や想像力、あるいは、自らが置かれた制約の範囲に押し込めてしまうこと。これこそが、期待の芽や可能性をつぶしてしまっている最大の原因となっているのではないか。これが筆者の見立てです。
いかがでしょうか。
では、解決するにはどうしたらよいのでしょうか。
今回は文字ばかりで長くなりましたので、次回の後編でお答えしたいと思います。
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