フラッシュメモリ事業が軌道に乗り始めたころ、竹内氏は海外への留学を考え始めるようになる。
フラッシュメモリの技術は深掘りできた。その分、自分自身の成長スピードは鈍ってきたのではないだろうか。そろそろ新しい分野にチャレンジするころかもしれない――。
竹内氏はもともと、物理工学を専攻。真理を探究する基礎研究から、フラッシュメモリの設計という開発の仕事を生業にするようになった。それなら、もっと実学寄りの経営やマーケティングといった領域も学んでみたらどうだろうか。いくら優れた技術を開発しても、上手く事業化できないことだってある。技術者だってマネジメントのことが分からないといけないはずだ。そう考えた竹内氏は、MBA(経営学修士)の取得を目指すようになる。
ところが「留学するのなら、アメリカの技術を持ち帰ってきてほしい」と考えていた人事部は難色を示す。MBA取得後にコンサルティング会社などに転職する人が続出し、社会的に問題視されるようになっていた情勢も災いした。
強い反発に遭ったが、竹内氏は初志を貫徹した。東芝は伝統的に、社員の主張を寛容に受け入れる企業風土。当初こそ反対されていたが、いくら説得しても主張が変わらないことが伝わると、最終的にMBA留学は認められることになった。
「私はそれまで技術だけをやっていましたが、アメリカには技術も経営もできる人がいます。そういう人が競争相手のトップにいると、いくら技術者がコツコツと頑張って研究開発をしても、勝てないんですよね。
本当なら管理職以上の社員は、技術も経営も分かっていないといけません。ですが日本には、技術しかやらない人と、技術を捨ててしまった人ばかり。それなら私が技術も経営もできるようになれば、確実に差別化できるようになると考えたんですね。
日本人にはマジメな人が多いですが、そういう視点を持つ必要があるのではないでしょうか」
その後も紆余曲折やトラブルもあったが、東芝の先輩たちが支援してくれたおかげで、何とかMBAを取得することができた竹内氏。「東芝は懐が深いなと、今でも感謝している」と、そのまま東芝に戻ることにした。
帰国後は「会社を変えてみせる」という想いを胸に秘めて奮闘するも、なかなか期待どおりの成果があがらない。「どんなに頑張っても企業を大きくは変えられないのではないだろうか」という考えがよぎるのと同時に「ゼロから新しいことを立ち上げたい」という想いも募るようになる。
そんなタイミングで東京大学から「研究者にならないか」との誘いを受ける。大学で研究室を持つようになれば、自分の看板で勝負し、責任は全部自分で負うことになる。自分をさらに成長させるためには、そうした環境に身を置くべきだ。竹内氏は誘いのあった翌日には、東芝を退社する心づもりを固めていた。
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