海外拠点を作るだけがグローバル展開ではない――埼玉のモノづくり中小企業大学教員は見た! ニッポンの中小企業事情(4)(1/2 ページ)

海外に拠点を作ることなく、地域(国内)拠点だけで国際的にビジネス展開する埼玉県の中小企業3社から学べることは?

» 2013年03月27日 10時00分 公開
[山本聡/東京経済大学,MONOist]

1.国際化とモノづくり中小企業

 「国際化(グローバル化)」は近年の日本の製造業を語る上で欠かせない言葉です。大手企業はリーマンショックや東日本大震災以降、海外生産展開やグローバル調達を強く推進しています。モノづくり中小企業はこうした経営環境の変化にどのように対応すればよいのでしょうか。

 その1つの方法として、

「中小企業自身が国際化を強く志向・実現すること」

が挙げられます。

 そして、筆者は広域多摩地域を巡る中で、上記の事例を幾つも見いだしています。本連載第4回ではその中でも、埼玉県の企業における「地域の中で国際化するモノづくり中小企業の姿」を紹介していきます。

2.巧みなHP戦略で国際化する――東京鋲螺工機

 東京鋲螺(びょうら)工機(埼玉県新座市:従業員28人)は微細なタップタイトねじの金型を手掛ける企業です。1961年に創業したのですが、下請企業として長らく特定の顧客に売り上げを依拠し、製造現場でも旧態依然とした職人的なモノづくりが大勢を占めていました。当時は顧客の間に「技術はあるが、納期を守らない」という評判があったくらいです。ついには事業承継にも事欠き、廃業を選択しようとします。

 一方、現社長の高味寿光氏は大手金属企業の経営企画職などを経験した後、倒産会社の再生に興味を持ち、ベンチャーキャピタルに転職しました。そこで、東京鋲螺工機に出会うのです。高味社長はまずは同社から派遣され、社長に就任、その1年後には統括会社を創業・独立します。そして、「納期厳守」や「管理職の育成」「新社屋の建設」といった能動的な経営を展開していきました。

東京鋲螺工機の建屋外観:おしゃれな社屋は高味社長の発案です

 ところが、2009年にリーマンショックが起こりました。その結果、大手家電企業が海外生産展開を志向し、PCや携帯電話、デジタルカメラ用の小ねじの国内生産も激減します。東京鋲螺工機も関連する金型を手掛けていたため、経営に大きな打撃を受けたのでした。こうした経営環境の変化を乗り越えるため、同社は新規顧客獲得を企図するのです。

高味社長(右から二番目)と中国人従業員(右)

 同社には小ねじのヘッダ加工に使われる微細金型を製作する中で、「超硬合金の加工」や「形彫放電加工」に関する高度な技術が蓄積されていました。日本では非常に珍しいことに、「TAPTITE 2000」(自動車用のタップタイトねじの金型製作のライセンス)も保有しています。こうした技術を核に、現社長は積極的な情報発信を展開します。例えば、自社のWebサイトは日本語以外に英語や中国語、韓国語に対応し、さまざまな機関のリンクを張ることで、日本語だけでなく英語でも検索上位にランキングされるようにしました。また、展示会への出展や著名な加工機器メーカーと連携するといったさまざまな施策を重ね合わせることで、まずは関西、次に中国や米国、そして台湾の企業などと取引を多角化していっているのです。今では中国などから国際人材も獲得しています。

3.F1部品サプライヤーの国際化戦略――UCHIDA

 UCHIDA(埼玉県三芳町:従業員35人)は1968年に創業してから、ガラス繊維に樹脂を積層したマネキンや玩具を製作していました。以後、だんだんと輸送機器部品も手掛けるようになり、今では大手自動車企業H社のレース用二輪車の試作部品も請け負っています。過去のマネキン製作で培った技術は高く、その後、26年間に渡る契約を結んだほどでした。

 2代目社長の内田敏一氏は1987年に同社に入社しました。内田社長は、欧州のスーパーカーへの強い関心と、かつ「父親とは違ったやり方で、事業を拡大したい」という思いもあり、アフターパーツメーカーに対して、スーパーカーのドレスアップパーツを提案することで、またたく間に新たな販路を開拓していきました。

 内田社長はH社など顧客からの要望もあり、1990年代終わり頃から炭素繊維複合材(CFRP)に着目します。ただし、CFRP成形に必要な「オートクレーブ(圧力釜)」は非常に高価な装置であり、同社のような中小企業にとっては導入がちゅうちょされる物でした。しかし、内田社長はオートクレーブの導入を強く提言して導入、無我夢中でCFRP成形に取り組みます。

 当時、内田社長は最愛の妻を亡くしたばかりで、その思いを新たな技術開発に向けていたのです。このことは、すぐに自動車企業に伝わり、F1カーの部品やモーターショー用カーの部品を手掛けることになったのです。その中で、海外にも目を向け、欧米の複合材料の技術カンファレンスに参加したりもします。合わせて、2006年に内田社長が事業を承継し、社名を旧内田工芸からUCHIDAに変更しました。

 ところが、リーマンショックにより、国内自動車企業がF1カーレースから撤退し、同社も深刻な経営危機に陥ります。そのため、ビジネスの多角化と海外企業との取引をより一層志向するようになったのです。

 その1つとして、著名な海外ヘリコプターメーカーからの受注を獲得します。また、2012年にはJETROや埼玉県産業振興公社の支援から、欧州系自動車企業の米国研究所でプレゼンテーションの機会を得ます。内田社長が当該企業のスポーツカーの大ファンだったこともあり、取引を構築しつつあります。また、産学連携など大学とのつながりの中で、複合材で有名なオランダの大学から留学生を受け入れるなど、自社の国際化も進展させているのです。

オートクレーブと内田社長
オランダからの留学生とともに
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