その人が待ち合わせをしていた「ゆみ」さんであると、私は簡単に気が付いた。この場所で、私のハンドルネーム(龍菜)で声を掛けてくる人なんて、限られたものだからだ。彼女は、私のWebサイトで公開しているプロフィールページの顔写真で見当をつけて、私に声を掛けてきてくれたようだ。
ゆみ「初めまして。デモ氏とのやりとり、面白く聞かせていただきましたよ」
龍菜「初めまして。黙って聞いてるなんて、人が悪いなぁ……」
いったい何を意地悪しているんだ、なんて思われたかもしれないな。しかし、これでも十分優しくしていたつもりなのだが。
ゆみ「私がやってるモデリングも似たようなものだなぁ、と思って見てましたよ?」
私たちは、CADメーカーのブースを数カ所回った後、会場ゲートの外に出た。エスカレーターで1つ階を上がり、すぐそこに見えた喫茶店へ入る。2時間ほど前に通り掛かったときには、昼食にありつくために並ぶ人たちの行列ができていたが、いまはだいぶ落ち着いてきている。
空いていた席に腰を下ろし、コーヒーを飲んでひと息つきながらしばらく雑談し、やがて話題は、先日のメールへと移っていった。
ゆみ「ほんと、聞く人聞く人、みんないうことがバラバラ。おまけに、みんなして『俺が正しい』と主張してくるんですよ。いったい私は何を信じたらいいのやら」
ゆみさんはそういって、コーヒーを飲み干し、空になったカップを見つめて大きなため息をついた。
龍菜「そういう設計者に限って、大切なことが抜け落ちていたりするんですよ。例えば、こんなスキルチェックをやってもらうとね……」
私は、カップの3面図と斜視図が描かれた紙をバッグから取り出し、テーブルの上に置いた。
龍菜「500ccのカップを設計してくださいね、という簡単な問題なんですが。ゆみさんも、やってみますか? 3Dモデルと図面を作成してください」
ゆみさんは、差し出された図を見つめながら、少し険しい表情になり、しばらく黙ってしまう。そして、おそるおそる、私に尋ねてきた。
ゆみ「この図面には、作図に必要な寸法がきちんと書かれていないんですが、どうしたらいいと思いますか?」
龍菜「あのね、設計するんだから、自分で決めてください。どれくらいの寸法にしたいんですか?」
ゆみ「じゃあ、直径50mmで、深さが100mmくらい、かな?」
龍菜「それで、500ccの水が入りますか?」
ゆみ「え、えっと……?」
龍菜「500ccの容量を、立方mmに換算したら、いくらになる?」
ゆみ「うーん……」
ゆみさんは、さらに悩み込んでしまったので、私は仕方なく、ヒントをあげることにした。
龍菜「暗算しやすいように円柱と考えれば簡単だよ」
ゆみ「うー…………」
残念ながら、せっかくあげたヒントは、ゆみさんにとってほとんど意味がなかったようだ。
実はこんなこと、彼女に限ったことではない。大企業の設計者ですら、円柱の体積を「直径 50mm×深さ 100mm=500cc」と答えてしまうことがあるので、設計アシスタントのゆみさんにとって、簡単ではなかったのかもしれない。まあ、いい機会なので、ほかにいくつか質問しておこうか。
龍菜「ところで、これは射出成形品なので、5度くらいの抜き勾配(こうばい)を付けます。カップの深さを100mmとしたら、上面の直径と底部の直径の差はいくらになるかな?」
ゆみさんの表情がさらに、固くなってしまった。
ゆみ「……。電卓、使ってもいいですか?」
ようやく出たひとことに対して、私はため息をつきながら、話を続ける。
龍菜「射出成形部品の設計とかモデリングもやってたんだよね? それなら、1度の抜き勾配って、何分の1くらいかくらいは覚えとかないと」
ゆみ「……」
バツの悪そうな表情で、ゆみさんはうつむいた。
龍菜「そうそう、設計するなら、このカップの設計基準を決めないといけないね? ゆみさんは、どの位置を設計基準にしますか?」
ゆみ「……。カップの底面、でしょうか?」
龍菜「設計基準は設計を始める位置、形を考え始める位置だと思うよ。カップは底から設計し始めるのかな?」
ここまでの話だけでも、物の形を決めていくためには、それ以前に重要なことがたくさんあるのだと分かってもらえたかな。
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