豊田自動織機製作所の第1回営業報告書には以下のような記述がある。
当社は、かねてより発明・研究を続けてまいりました「自動織機」を完成させることができた。実地試験の結果、驚異的な作業能率を実現できたため、これを一般に公開・販売することで、我が国の綿織物業界が直面している苦境を救う一助にしたいと考えました。折しも織物業界は不況のまっただ中にありましたが、それにもかかわらず、連日多くの方々が見学に訪れています。各方面から高い評価をいただき、創立から日が浅いにもかかわらず、各紡績会社からの注文が非常に多数に達していることは、この上ない喜びであります。
まさに、設立直後の同社の営業活動は極めて順調な経過をたどった。
表4に、豊田自動織機製作所の創業期の自動織機の受注/製造に関する変遷を示す。
| 年代(西暦/和暦) | 区分 | 内容/状況 |
|---|---|---|
| 1926年(大正15年)以前 | 設立前(日置鉄工場時代) | 自動織機の受注確定数:2,835台 (うち1,203台は納入済み、残1,632台) |
| 1926年(大正15年/昭和元年) | 会社設立 | 豊田自動織機製作所を設立 日置鉄工場より受注残611台を引き継ぎ、営業開始 |
| 1927年(昭和2年)頃 | 創業第1期〜第2期 | 受注の急増 ・第1期:400台余の注文 ・第2期:1000台余の注文 ・第2期末時点の受注残:564台(月産100台のペースで約5カ月半の仕事量) |
| 1928年(昭和3年) | 制度改正1年前 | 翌年の工場法施行(深夜業禁止)を控え、業界全体で自動化への需要が加速 |
| 1929年(昭和4年)7月1日 | 工場法の実施 | 女子年少者の深夜業禁止が施行 この時期を境に、豊田系以外の一般市場からも広く注文を受けるようになる |
| 表4 豊田自動織機製作所の創業期の自動織機の受注/製造に関する変遷 | ||
設立時から既に、豊田自動織機製作所の前身である日置鉄工場から611台の受注残を受け継いでいたが、営業を開始したばかりの第1期には実に400台余りを受注、さらに第2期には1000台余りに及ぶ注文が舞い込み、創業後1年にも満たない第2期末には564台の受注残を擁する勢いであった。
当時の豊田自動織機製作所の生産能力を月産100台とすると、実に5カ月半に相当する仕事量であった。表5に受注状況を示す。既に設立前に受注が確定していた2835台のうち、日置鉄工場で1203台を製作、納入しており、受注残は1632台だった。
| 納入先 | 受注台数 | 納入台数 | 受注残 |
|---|---|---|---|
| 豊田紡織本社工場 | 1,008台 | 528台 | 480台 |
| 豊田紡織刈谷工場 | 520台 | 520台 | 0台 |
| 菊井紡織 | 1,176台 | 124台 | 1,052台 |
| 豊田紡織菊井工場 | 24台 | 24台 | 0台 |
| 鐘淵紡績 | 101台 | 7台 | 94台 |
| 東洋紡績 | 6台 | 0台 | 6台 |
| 計 | 2,835台 | 1,203台 | 1,632台 |
| 表5 豊田自動織機製作所の設立前の自動織機受注台数/納入台数/受注残 出所:豊田自動織機製作所「四十年史」 | |||
もっとも、その大部分は豊田系の織布工場からの注文であり、広く一般市場からの注文に応じられるようになったのは、それ以後のことであった。
その当時の綿紡織業界では、女子年少者の深夜業禁止を定めた工場法の実施を1929年(昭和4年)7月1日に控えており、第一次世界大戦後の不況克服に向けて世界的課題として各国が取り上げた産業合理化運動に呼応し、各種の経営合理化対策が真剣に検討されている時であった。従って、高性能の自動織機の出現は、業界から非常な期待をもって迎えられた。
豊田自動織機製作所が自動織機の販売を開始するや、たちまちのうちに引き合いが殺到し、毎日多数の見学者が訪れた。これらの人々は豊田自動織機製作所において、まず自動織機の製作状況を視察した後、さらに隣接する豊田紡織刈谷工場に案内され、520台の自動織機が、実地に高能率で運転されている状況を目の当たりにして深い感銘を受けた。当時の紡績会社は、見学者のために営業工場の門戸を開くという習慣がなかった。この意味で豊田紡織刈谷工場の公開は、非常な英断として、業界に大きな反響を呼んだ。
このように盛況裡に発足した豊田自動織機製作所の織機製造事業だが、1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、さらに1930年(昭和5年)の浜口内閣による金輸出解禁の影響を大きく受けることになる。産業界の不況は一段と深刻になり、紡織業界の新規契約がほとんど途絶え、「既納品の残り分」や「補充部品(アフターパーツ)の製作」だけで操業を継続する苦境に立たされ、徹底した経費節約と生産原価の引き下げに注力せざるを得ない、厳しい試練の時となった。
1926年(大正15年)春、豊田紡績の総会において、豊田利三郎は新会社設立計画を明快な答弁と確固たる自信をもって説明した。
一方で、豊田式織機との特許紛争を円満に解決するために三井物産が仲介に入り、新会社の株式を豊田紡績、豊田式織機、豊田佐吉(発明者)、その他功労者にそれぞれ4分の1ずつ割り当てる案が検討された。しかしこの案は実を結ばず、1926年(大正15年)8月15日、豊田式織機は「特許権登録名義変更手続等請求」の訴訟を提起した。
この訴訟により、豊田式織機と共同で新会社を設立する望みは完全に断たれ、会社は豊田佐吉とその一族、縁故者のみの出資によって設立された。なお、この訴訟は法廷で争われたが、1927年(昭和2年)6月に愛知県知事の小幡豊治のあっせんで和解し、円満に解決した。
武藤 一夫(むとう かずお) 武藤技術研究所 代表取締役社長 博士(工学)
1982年以来、職業能力開発総合大学校(旧訓練大学校)で約29年、静岡理工科大学に4年、豊橋技術科学大学に2年、八戸工業大学に8年、合計43年間大学教員を務める。2018年に株式会社武藤技術研究所を起業し、同社の代表取締役社長に就任。自動車技術会フェロー。
トヨタ自動車をはじめ多くの企業での招待講演や、日刊工業新聞社主催セミナー講演などに登壇。マツダ系のティア1サプライヤーをはじめ多くの企業でのコンサルなどにも従事。AE(アコースティック・エミッション)センシングとそのセンサー開発などにも携わる。著書は機械加工、計測、メカトロ、金型設計、加工、CAD/CAE/CAM/CAT/Network、デジタルマニュファクチャリング、辞書など32冊にわたる。学術論文58件、専門雑誌への記事掲載200件以上。技能審議会委員、検定委員、自動車技術会編集委員などを歴任。
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