大正から昭和へ、順風満帆の船出となった1926年の豊田自動織機製作所設立:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(15)(1/3 ページ)

トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第15回は、豊田自動織機製作所(現:豊田自動織機)が設立された1926年(大正15年/昭和元年)の日本の経済/政治状況と、豊田佐吉の歩みをつぶさに見ていく。

» 2026年09月29日 08時00分 公開

1.はじめに

 前回の連載第14回は、トヨタが織機事業から自動車事業への転換を進めた1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の10年間を概観した。

 今回は、1926年(大正15年/昭和元年)の日本の経済/政治状況と、豊田佐吉の歩みをつぶさに見ていく。

⇒連載「トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革」バックナンバー

2.1926年の日本の経済、政治の状況と佐吉の特許出願状況

 1926年(大正15年/昭和元年)、1月30日、第1次若槻内閣成立。3月、労働農民党結成。6月、国産振興委員会設置。8月、日本放送協会設立。12月25日、大正天皇崩御、皇太子裕仁親王が第124代天皇に践祚(せんそ)。光文事件。同日昭和に改元。

 自動車関連では6月、ドイツでダイムラー・ベンツ※1)設立。図1に示すメルセデス・ベンツ 200 シュトゥットガルト※2)を販売。9月、ダット自動車製造※3)が設立。

図1 図1 メルセデス・ベンツ 200 シュトゥットガルト(1926年) 出所:GAZOO

※1)ダイムラー・ベンツは、1926年6月28日に、ゴットリープ・ダイムラーが創業したダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(DMG)と、カール・ベンツが創業したベンツ&Cie.が合併してドイツのシュトゥットガルトに設立された。この合併により誕生した新会社は、自動車のブランド名を「メルセデス・ベンツ」とし、販売を行った。ちなみに、ベンツは、1883年、カール・ベンツがガス機関工場として設立。ダイムラーは、1890年、ゴットリーブ・ダイムラーが設立(ダイムラー自動車会社)。なお、ダイムラー・ベンツはその後、以下のように名称を変更した。1998年、アメリカのクライスラーと合併し、ダイムラー・クライスラーに。2007年、クライスラーを売却し、ダイムラーに。2022年、高級車部門がメルセデス・ベンツ・グループに社名変更し、トラック部門はダイムラー・トラックとして分社化された。

※2)メルセデス・ベンツ 200 シュトゥットガルトは、1926年にデビューした小型ツーリングモデルで、“シュトゥットガルト”は旧ダイムラーの所在地から採ったもの。車名を10cc単位の排気量で表す。設計担当は、ダイムラー時代から引き継いで主任設計者となったフェルディナント・ポルシェ博士。直列6気筒SV2リットル、38PSのエンジンを、ラダーフレームに搭載。サスペンションは前後ともリーフリジッド。3速MTフロアシフト、FR駆動。定員4人。1928年にはエンジンを2.6リットル、50PSに進化する。

※3)ダット自動車製造は、日産自動車の源流の一つで、快進社が経営不振を打開するため設立した「ダット自動車商会」が1926年に「実用自動車製造」と合併して誕生した会社。この会社は1931年に戸畑鋳物の傘下に入り、1932年には、小型乗用車の「ダットソン」の製造を成功させた。1933年、戸畑鋳物が「自動車製造」を設立し、ダット自動車製造の小型車製造部門を引き継ぎ、後に社名を日産自動車に変更した。

 表1に、1926年(大正15年/昭和元年)に豊田佐吉が出願した特許を示す。この年は4件。

特許番号 発明者 出願年月日 登録年月日 特許の名称
71279 豊田佐吉 1926年(大正15年)3月29日 1927年(昭和2年)3月7日 遊動装置
72741 豊田佐吉 1926年(大正15年)6月3日 1927年(昭和2年)7月22日 自動織機の杼箱後側板抑圧装置
78935 豊田佐吉 1926年(大正15年)7月17日 1928年(昭和3年)11月12日 杼換式自動織機の残緯糸除去装置
73935 豊田佐吉 1926年(大正15年)9月9日 1927年(昭和2年)10月12日 耳残り糸切断装置
表1 1926年(大正15年/昭和元年)に豊田佐吉が出願した特許

耳残り糸切断装置の仕組み

 ここからは、表1の4番目に示した耳残り糸切断装置について見ていく(図2)。

図2 図2 耳残り糸切断装置 出所:豊田自動織機製作所「四十年史」

 この耳残り糸切断装置は、1924年(大正13年)に完成した無停止杼換式豊田自動織機(G型)に搭載された「24の自働機構」の一つである。

 自動織機において、自動で杼(シャトル)を交換すると、どうしても交換前の「古い糸の端」が布の端(耳)に残ってしまう。これを放っておくと布の端部がきれいにそろわないため、「杼を交換した瞬間に、残った糸をハサミでチョキンと切る」のがこの装置の仕事である。

  • 発明の目的:手織りのように人間がハサミで切る必要をなくし、1人の工員が数十台を同時に管理できるようにすること
  • 技術のポイント:織機が高速で動いている最中に、ピンポイントで「古い糸だけ」を狙って切る精密なタイミング制御が特徴である

 この技術により、豊田の自動織機で作られた布は「手織りよりも美しい」といわれるほどの高品質を実現した。

 耳残り糸切断装置の動作の仕組みは以下の通りである。

  • 筬(おさ)の前進運動につれて、カッターハンマーの脚(図2の1)と筬台の突起(同2)が接触する
  • この力でカッターハンマーが押され、先端がテンプルケース底部(同3)を打ち、端糸を切断する
  • 筬が後退すると、カッターハンマーは自重で元の位置に復帰する
    →構造は簡単ながら、確実に耳残り糸を切断でき、製品の仕上がりを安定させる

 豊田式自動織機における耳残り糸切断装置は、自動杼換(ひかん)の際に残る不要な緯糸(よこいと)を自動的に切断し、布の品質を保つための非常に重要な機構であった。

3.豊田佐吉の個人発明から技術者集団による共同研究開発への移行

 豊田佐吉の発明活動は、初期には個人発明家としての色彩が強かったが、1920年代に入ると、豊田喜一郎をはじめとする技術者集団との共同研究開発へと発展していった。

 特に、無停止杼換式豊田自動織機(G型)の開発期には、喜一郎、鈴木利三郎、大島理三郎らが研究開発に重要な役割を果たしたことが知られている。

 豊田自動織機および特許庁の資料によれば、豊田佐吉は生涯に日本国内で40件の特許と5件の実用新案権を取得し、さらに海外19カ国で62件の特許を取得した。これらには自動停止装置、自動杼換装置、環状織機などの重要発明が含まれている。

 一方で、1920年代以降の自動織機の開発は、豊田佐吉の個人発明から豊田自動織機という会社の組織的研究開発への移行期にあり、豊田喜一郎を中心とする技術者グループの貢献が拡大した。

 1921年(大正10年)以降、喜一郎は自動織機の研究開発を主導しはじめ、1924年(大正13年)に完成した無停止杼換式豊田自動織機(G型)の実現に大きく寄与した。

 しかし、佐吉も上海と日本を往復しながら研究開発を監督し、技術方針の決定や発明指導を継続していた。そのため、無停止杼換式豊田自動織機(G型)は、豊田佐吉の発明思想と豊田喜一郎ら技術者集団の実践的開発能力が結実した成果といえよう。

 また、20世紀初頭の繊維機械産業では、発明活動の主体が個人発明家から企業研究開発組織へ移行する傾向が見られた。この変化は豊田グループに限らず、山形の鶴岡織物(斎藤外市の斎外式力織機)や大阪泉州の機械工業(原田元治郎の原田式力織機を支えた地場産業)など日本の織機産業全体にも共通する現象であり、豊田自動織機の開発はその代表的な事例の一つと考えられる。

 このような状況の中で、1926年(大正15年)1月、刈谷の豊田紡績織機試験工場では、1万錘の紡機据え付け工事がほぼ完了し、操業を開始した。さらに、前年の1925年10月ごろから据え付けを始めた自動織機も好調に稼働し、その成果に自信を得た豊田紡績は、1926年(大正15年)2月に試験工場を営業工場へと切り替え、「豊田紡織株式会社刈谷工場」として新たな歩みを始めた。

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