前回の繰り返しになりますが、「誰か別の企業が、使いやすい標準にしてくれたら使えば良い」という、いわばタダ乗りのアプローチは、参加者数があまりにも少ないため、機能しません。しかし、問題はこれだけではありません。
具体的な問題について述べる前に、まずは少しおさらいをさせてください。
AUTOSARに限ったことではありませんが、各種団体が作成する標準には、その土台となる共通認識(暗黙ともなりがちな「当たり前」)がある場合が少なくありません。標準もコミュニケーションの一形態ですし、標準を作るための標準化活動の中では多くのコミュニケーションが必要となります。
コミュニケーションにおいて「当たり前のこと」がより多く共有されていれば、コミュニケーションにおけるコスト(手間など)を抑制することができます。標準に記述する内容はスリムにすることができますし、標準化活動での議論をより円滑に進めることができるでしょう。
当然ながら、標準化に関わる集団を構成するメンバーや目的、作り上げようとする標準の性質などによって「当たり前のこと」は異なるでしょう。しかし、その相違点は、必ずしも全てではないものの、標準化を進める中でのコミュニケーションを繰り返す中で徐々に集団の中での受け入れが進み、「当たり前のこと」の一部として共有されるようになります
「当然想定すべきユースケース」や「価値判断における指標や優先度基準」などは、この「当たり前のこと」の代表例といえるでしょう。
AUTOSARに長年関わり続け、標準化活動に実際に参加する中で、つくづく実感していることがあります。それは、日本での「当たり前」、つまり、ユースケースや価値観などに関する共通認識や期待などが、AUTOSARにおいては受け入れられているわけではないのです。AUTOSARでの「当たり前」のうち、日本ではあまり受け入れられないであろうことについて、その代表例を以下に示します。
特に1番目の内容への理解の不足は、国内で「AUTOSARに対する不満」(あるいは、「不足」「不備」「欠陥」などのもっと強い言葉)の多くを引き起こす要因となっています(「過剰」「不要あるいは無駄な機能が多い」などの言葉も同様でしょう)。私自身、そのようにおっしゃる方々には都度説明していますが、「標準ならば、かくあるべき」という強い思いをお持ちの方々の中で「正しいか否か」などの判断を急ぎがちな方々にとっては、どうも受け入れが難しいようです。
ある「当たり前」を共有する集団が作った標準は、異なる「当たり前」を持つ集団から見れば、過不足があるように見えても仕方がありません。なぜなら、後者にとっての「当たり前」が、前者にとっての「当たり前」にはなっていないからです。そう、実は、「正しいか否か」ではなく、ただ単に「違うか否か」の問題でしかないのです。
ですから、自分たちにとっての「当たり前」が正しいと信じて、「当たり前でしょ?」「自明でしょ?」のように言い放つだけで適切な場に出て説明をしないのでは(議論の一方的な打ち止め)、いつまでも何も変わりません。たとえ、それらの意見に対して一定の支持者が国内に多数いたとしても、AUTOSAR側での「当たり前」になっていなければ何の意味もありません。
また、2番目の「存在しないニーズやごくまれなユースケース」についてですが、少し考えてみてください。日本では一般的なニーズやユースケースであっても、これまでに誰もAUTOSAR側に意見表明していなかったとしたら、それは、AUTOSARにとっての「存在しないニーズやごくまれなユースケース」(「当たり前」ではないもの)扱いになっていると考えられはしませんか?(恐ろしい……)
では、どうしたら、自分たちにとっての「当たり前」をAUTOSARでの「当たり前」に少しでも取り入れてもらえるのでしょうか。
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