東京マラソンで学んだ「人と人のつながりの大事さ」心技隊流「未来を創るヒント」(1/2 ページ)

被災地復興支援が目的である中小製造業による部活動「製復支P【陸上部】」のリーダー「らん邊」氏が東京マラソンで実感したのは「人同士が支えたり支えてもらったりして、偉業を成し遂げること」。

» 2013年01月21日 06時00分 公開
[らん邊,MONOist]

 「自分の立ち位置」とは、何だろうか。私の答えは、「仕事やプライベート問わず、いろいろなことを通して、皆さんにいかに喜んでもらえるか」。そんなことをあらためて自分で再確認したきっかけは、昨年(2012年)の東京マラソンだった。

 ――2012年1月2日、製造業関連の仲間と毎年恒例になった一般参賀の後、初詣に某神社へ向かった。ここで祈ったことは「被災地の方々の心が少しでも癒されますように。そして、東京マラソンで完走できますように!」。このときばかりは「神頼み」以外の何物でもなかった。

 そもそもなぜ私が東京マラソンで走ろうかと思ったのか。もともと趣味であったスキーのオフシーズントレーニングとして「ランニングでも始めようか」と考えた。だがせっかくなので何か走るための目標がなければ面白くない、ならば「東京マラソンへ申し込んじゃえ!」と暴挙に出た。ところが2度の落選(例年約3万人の枠で、競争率9倍)。結局、走るきっかけを失っていた。

 そんな個人の思いとは別に、2011年3月11日に起きた東日本大震災を受け、製造業関連の仲間とともに「製造業的復興支援プロジェクト」の立ち上げ活動を行なっていた。

製造業的復興支援プロジェクト

SNSでの交流から誕生した、製造業関係者を中心として取り組む被災地支援プロジェクトのこと。心技隊に属さないメンバーも活動している。



 国内の復興支援活動全体からすると、ほんの少しの支援にしかならないかもしれない。しかし、それでも動かずにはいられなかった。そのような活動をする中で、東京マラソンのチャリティランナー制度について耳にした。

 チャリティランナーとは、10万円以上の寄付で東京マラソンに参加できる(3000人まで)制度だ。集まった寄付金の半分は東日本大震災の支援金となり、残り半分は「家族をつなぐ」「未来へつなぐ」「命をつなぐ」「夢をつなぐ」「暮らしをつなぐ」をテーマに活動する協力団体へ支援金として配布される。

 Facebookで「東京マラソン落選! でもチャリティランナーっていうのがあるのですね」とボソッとつぶやいたのが、2011年9月下旬のことだった。その投稿に緑川さんがパクリとくらいついてきて、「らん邊(らんなべ)さんを復興支援のために走らせる協賛金を出す人、手、挙げて!」とすぐさまFacebook上で呼びかけを始めた。その後、あれよあれよと、私のサポーターは50人をオーバーした。これには嫌な汗が出た。

 それでも覚悟を決めることができたのは、復興支援活動で目に焼き付いていた悲惨な状況の海岸線や、「協賛する」と手を挙げてくれた方々の顔が目に浮かんだからだ。

 東京マラソンは2012年2月26日。まずは格好から入るために靴やサングラス、ランニングウェアを買い込み、初練習が2011年12月1日だった。ちなみにこの日は、散歩中らしき、やたら早足なおじいさんに追い抜かれてしまい、大へこみだった……。

 毎日早朝、たとえ雨であっても走り込んだ。本番当日は雨の場合もあり得る。そのおかげで、同年末には15kmまで、歩きながらだが走破できるようになったが、その頃からヒザに違和感を覚えるようになり、年が明けてからは1日置きの走り込みに切り替えた。

 そんな素人なりの練習を何とか繰り返してきた。しかしフルマラソンどころか、10kmの競技すら出たことのない私は、内心、大きな不安を抱いていた。前日からホテル入りして、ドキドキする夜を迎えたものの、結局、ぐっすり眠れた。

 マラソン経験者から「コースの下見は必要だ」というアドバイスを受けていたので事前に自転車で全ての区間を走っておき、コースのアップダウンは頭に入れておいた。「準備が万事」。中小製造業における仕事の場合も安易な失敗は許されない。いかに周到に準備を行うかが肝。マラソンも同様だ。

 さて当日は、ビーサイズの八木啓太さんがデザインした応援旗を持って、製造業仲間が、皆、応援してくれるという話! もう本当にドキドキワクワクで、恥ずかしいやらうれしいやら……。

 スタートの号砲が鳴り、石原前都知事の前を通り過ぎ新宿ガード下へ差し掛かるところで、いました、例の応援団の皆さまが。「ヤッホー!」とそこに声を掛けたかどうかは忘れてしまったが、ともかくそのタイミングで、お互いに気が付いた。それからが私にとっての本当のスタートとなった。

 初心者ランナーがいきなりフルマラソンに挑戦しているのだから、途中しんどくなるのは当たり前だ……。案の定、銀座を通過するあたりで、しんどくなってきていた。そんなときに、“スーパーマンのごとく”現れたのが、沿道の応援旗と皆の笑顔で、「頑張れー!」の声援がどれだけ心強かったことか。

 大会走者の芸能人(女性)に追い付き、「やっぱり、きれいな人やぁ〜」と思っていたら、置いていかれ……。それでも、皆の応援旗に何度も何度も励まされながら、そして少しだけウルウルしながら走り続けた。

 そしてついに、マラソン初心者にとって未知の世界である「30km過ぎ」に到達。これは、想像を絶する世界だ。私の走るスピードはもはやマラソンではなく、あのおじいさんの散歩に近くなっていたが、不思議とリタイヤしたいとは思わなかった。「(ゴールの)東京ビッグサイトへ到達すること」こそが自分の使命だと思ったからだ。

 あのゴールゲートと皆の応援旗が見えたときの感動、そして6時間以上も私のことを追いかけ続けてくれた応援団の元へたどり着いて、皆の笑顔を見たときの安堵感。この経験は、私の宝だ。そして、それが1つのきずなの形だと思った。

 私の中で、自分自身そして製造業仲間の立ち位置が、ある意味で明快になった。短期的な目線ではなく長いスパンで、「自分は人のために何ができるのか」を考えたとき、いかなる場面においてもつまるところ「人と人のつながりの大事さ」というところに落ち着くだろう。

 モノづくりも、全てが1人でできるわけではなく、支えたり支えてもらったりで偉業を成し遂げるものだ。初の東京マラソン完走も1人では成し得なかった。完走できたことは、まさに皆に支えてもらったことで達成することができた(私自身にとっての)偉業だった。

 この活動はその後、製造業的復興支援プロジェクトの一環ということで、「製復支P【陸上部】」と正式に名付け、装いを新たにした。新部員として、ユニーク工業の羽広保志さんと新栄工業の中村新一さんが加わった。

 わが陸上部は、2013年2月24日に開催される東京マラソンもチャリティー枠で出場する。「2.24」まであとわずかだ。自分たちなりの万全な準備と「やればできる! 諦めたらそこで終わり」という気持ちが大事。それは、何ごとにも通じることではないだろうか。

 「昨年は、チャリティー協賛していただいた方、現場で応援していただいた方、そして陰で(?)応援いただいた方、誠にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます」。

らん邊氏とサポーター。八木啓太氏のデザインした赤い旗を掲げている。
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