なぜ案件別原価は合わないのか? 労務費の証拠不足と月末の案分運用が招く世界:案件別の原価はなぜ実態と合わないのか(前編)(2/3 ページ)

» 2026年10月28日 06時00分 公開

材料の値上がりは通るが、時間の値上がりが通らない理由

 まず断っておくと、発注側が特別に非情なわけではありません。発注側もまた自社のコスト目標を持ち、調達部門は原価低減の責任を負い、相見積という正当な手段を持っています。「他社さんはこの水準です」は脅しではなく、市場価格の提示です。

 一方の受託側は、稼働を埋めなければ固定費が重くのしかかります。断る力の弱さは経営の甘さではなく、都度受注/多品種少量という業態の構造です。だから値上げ交渉は、力関係で押し返す勝負ではなく、“価格をのめない理由を証明する”勝負になります。ここで効いてくるのが、先ほどの「材料は通る/労務費は通らない」の差です。

 材料の値上がりは、仕入伝票に出ます。鋼材の価格が2割上がった事実は、発注側の調達部門も自社の仕入で知っています。証拠があり、相手も検証できるから、交渉のテーブルに載せることができます。

 ところが労務費、つまり現場が使った時間は自社の中で発生し、多くの会社で案件別の数字になっていません。「手間がかかるようになった」「段取りが増えた」といったことを実感していても、伝票がない……。このように状況を証明できないものは、“査定表の係数”で押し切られます。

 もちろん、労務費が通りにくい理由は一つではありません。一度上げれば下げにくい継続コストであり、賃上げ幅の妥当性は材料の市況のようには検証できません。ただ、これらは全て相手側と制度側の事情です。受託側が自分の手で動かせる変数は、その中に1つしかありません。それは「証拠を持って交渉の場に立てるかどうか」です。本稿は、この1点に絞って説明します。

 人の時間が、証拠さえあれば堂々と売れることは、“隣の業界”が証明しています。筆者は前職でコンサルティング業界にいました。同業界の商品は、ほとんどが“人の時間だけ”で構成されています。それでも、誰がどの案件に何時間使ったかが日次で記録されているため、請求は「単価×工数」の積み上げで提示されており、毎年の単価改定もその稼働記録を土台に交渉されます。原価のほぼ全てが労務費の業界が、労務費の価格交渉で成立していることから、人の時間は記録があれば交渉のテーブルに載る商品として扱うことができます。

 ここで1つ、はっきりさせておきたいことがあります。受託加工/受注生産という業態は、弱い業態ではありません。図面ごとに毎回違うものを、都度の段取りで、求められる精度と納期でこなすという対応力は、量産ラインでは代替できない日本のモノづくりの土台です。弱いのは業態ではなく、“その価値を金額で証明する数字を持っていない”ことだけです。

「この案件、貴社の値段では30万円の赤字です」といえるか

 よくある交渉の風景を例に挙げます。年度の単価見直しの際に「材料費や人件費も上がっており、全体的に厳しい状況でして……」と受託側の社長が切り出します。これを受け、発注側の調達担当者は「お気持ちは分かります。ただ、具体的にどの品番をいくら上げたいというお話でしょうか。根拠になる資料はありますか?」とうなずきながら聞き返します。

 ここで提示できるのが材料の仕入伝票だけの場合、調達担当者側は「――材料分は検討します」という回答になってしまい、労務費については話題にすら上がらずに交渉が終わってしまいます。このような形で多くの値上げ交渉が、半分だけ通り、半分は静かに流れています。

 では、「この型の案件は直近3件の実績で、材料費が平均x万円、段取りを含む加工時間がx時間で労務費がx万円かかっています。貴社の現行単価では1件当たり30万円の赤字です。材料はこの仕入実績、時間はこの記録です」といえたらどうでしょうか。

 発注側の調達担当者も、社内で増額を通すには理由が要ります。担当者個人が値上げを認めたくても、上司と経理に説明できなければ稟議(りんぎ)は通りません。根拠のある値上げ要請は、相手を説き伏せる武器である以前に、相手が自社内で戦うための材料となるのです。逆に「厳しいので……」という返答だけでは、発注側の担当者が自社に持ち帰ったところで何も書けません。

 交渉の際に効く根拠には粒度があります。「会社全体で人件費がx%上がった」という総額の話は、実は弱いのです。この場合、「それは貴社の経営の問題では」と返せてしまうからです。

 価格交渉の場で強いのは「案件/型/工程」の単位です。「この品番はこの工程に毎回何時間かかっており、時間単価×工数でこの金額になる」といった段階まで降りた数字は、発注側が自社の感覚と突き合わせて検証できるため、受託側から提示された数字を否定しにくくなります。労務費の値上げを促す制度の後押しも、この粒度の根拠を出せる会社から順に効いていきます。このような追い風に対して、帆を張って有効に活用できるかどうかは、自社の帳簿次第です。案件別の原価を根拠として出せる会社は、発注側から「管理のできている会社」と見られます。帳簿は守りの道具であると同時に、営業の道具でもあるのです。

 また、労務費の値上げには“賃上げ”という文脈が加わるようになりました。賃上げの原資は、受託側にとって受注単価しかありません。労務費の値上げが通らない会社は、構造的に賃上げの原資を削り出せません。現場の給料の話が、実は価格交渉の帳簿の問題だった、という会社は少なくないはずです。

 そしてここに、多くの会社がつまずく段差があります。「では案件別の原価を出そう」と社内を見たとき、材料費はかき集められても、「労務費(誰がどの案件に何時間使ったか)」が、どこにも記録されていないのです。

 日報はあっても、案件別に積み上がる形の時間の記録はない――。価格交渉の場で根拠を証明できないのは、交渉が下手だからではなく、“現場の時間の記録が最初からないから”なのです。

図2:労務費の価格転嫁の困難さの原因[クリックで拡大] 出所:Whitebell

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