トヨタが織機から自動車へ事業転換を進めた10年間の意義:トヨタ自動車におけるクルマづくりの変革(14)(1/3 ページ)
トヨタ自動車がクルマづくりにどのような変革をもたらしてきたかを創業期からたどる本連載。第14回は、トヨタが織機事業から自動車事業への転換を進めた1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の10年間について、日本の経済や政治の状況と併せて概観する。
1.はじめに
連載第12回ではトヨタ史にとって記念すべき1年となった1925年(大正14年)の日本の経済/政治状況と豊田佐吉と喜一郎の歩みを、第13回では同時期に完成し本格量産を開始した世界最高の織機「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」を取り上げた。
今回は、トヨタが織機事業から自動車事業への転換を進めた1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の10年間を、日本の経済や政治と併せて概観していく。
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2.1925〜1934年の日本の経済と政治、主要産業の概況
まずは、1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)における日本の経済と政治、主要産業の概況を見ていこう。
この10年間は、日本が第一次世界大戦後の恐慌や金融危機、世界大恐慌といった経済的試練に直面し、国内政治は政党政治の崩壊と軍部の台頭を経て満州事変へと突き進んだ、激動の時代であった。
(1)経済状況:恐慌とデフレの時代
本連載第12回でも述べたが、1925年前後の状況は、普通選挙法/治安維持法の制定、日ソ基本条約締結、ラジオ放送開始など、政治/社会面では近代国家としての制度整備が進んだ年であり、経済も第一次世界大戦後の反動不況から立ち直りつつあった。
自動車/交通分野の変化に関しては、関東大震災(1923年)後の復興期に、トラック輸入が増加し、都市周辺の輸送に自動車が本格的に使われ始める。1925年には日本フォード、1927年には日本ゼネラルモータースが設立され、フォード車とGM車が日本市場を席巻し、1930年代半ばまで国産車を圧倒する構図が続いた。
また、1929年の世界恐慌は日本にも深刻な影響を与え、1930年代初頭まで不況が続いた。輸出不振、農村不況の中で、政府は国産車振興政策や合理化政策を進め、自動車工業を含む重工業の育成に力を入れていく。
表1に、1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の日本の経済概況を示す。要約すれば、恐慌とデフレの時代であった。
| 期間 | 出来事と経済状況 |
|---|---|
| 1925年頃 | 金融恐慌の前夜であった。第一次世界大戦後の反動不況(戦後恐慌)が長引き、震災手形(関東大震災の被害企業への融資手形)処理の遅延により金融機関の信用不安が燻っていた |
| 1927年(昭和2年) | 金融恐慌が発生した。台湾銀行の休業をきっかけに銀行の取り付け騒ぎが起こり、主要銀行が次々と休業、破綻した。政府は緊急勅令を発し、モラトリアム(支払猶予令)を実施して沈静化を図った |
| 1930年(昭和5年) | 金解禁と世界恐慌が起こった。蔵相の井上準之助により金解禁が実施されたが、直後に世界大恐慌(1929年)の波が日本に及び、解禁は円高デフレを招き、昭和恐慌と呼ばれる深刻な不況に突入した |
| 1931年(昭和6年) | 満州事変と高橋財政が始まった。満州事変が勃発し、蔵相の高橋是清(「だるま蔵相」)が金輸出再禁止(金本位制からの離脱)を実施して為替相場を管理した。積極的な財政出動(赤字国債発行)と低金利政策により景気回復を図る、いわゆる高橋財政が開始された |
| 1932年以降 | 景気の回復に向かった。円安の進行が輸出産業、特に繊維産業に恩恵をもたらし、軍需景気も相まって、欧米に先駆けて日本は恐慌からいち早く脱出に向かった |
| 表1 1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の日本の経済概況 | |
(2)政治状況:政党政治の崩壊と軍部の台頭
表2に、1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の日本の政治概況を示す。要約すれば、政党政治の崩壊と軍部の台頭の時代であった。
| 期間 | 出来事と政治状況 |
|---|---|
| 1925年(大正14年) | 普通選挙法と治安維持法が成立した。満25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法が成立し、民主化が進む一方で、社会主義運動を取り締まる治安維持法も制定され、思想統制が強化された |
| 1927年(昭和2年) | 金融恐慌と政権交代が起こった。若槻礼次郎内閣が金融恐慌対応の失敗で総辞職し、田中義一内閣(立憲政友会)が成立した |
| 1930年(昭和5年) | ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題が起こった。浜口雄幸内閣(立憲民政党)がロンドン海軍軍縮条約を締結したが、海軍の軍令部などが「天皇の統帥権を内閣が侵した」として攻撃し、政党政治への不満が噴出した |
| 1931年(昭和6年) | 満州事変が勃発。関東軍が柳条湖事件を機に満州全域を占領した。若槻内閣は不拡大方針をとるも軍部の独走を止められず、国際的孤立を深めた |
| 1932年(昭和7年) | 五・一五事件が発生し政党内閣が事実上の終焉を迎えた。海軍青年将校らが首相の犬養毅を暗殺し、これにより、憲政の常道とされた政党による内閣が途絶え、軍人や官僚が中心の「挙国一致」内閣の時代が始まった |
| 1933年(昭和8年) | 国際連盟脱退に至った。満州国建国を国際連盟に承認されなかった日本は、連盟を脱退し、国際的孤立を決定づけた |
| 表2 1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)の日本の政治概況 | |
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