欧州が運用を開始するAI法は医療分野と調和できるか、量子技術との融合にも注目:海外医療技術トレンド(123)(3/3 ページ)
本連載第116回で欧州保健データスペース(EHDS)を取り上げたが、2025年8月2日に汎用目的人工知能(GPAI)に関わるAI法のルールが適用開始となった欧州では、量子技術との融合に向けたアクションが本格化している。
AIと量子技術の融合による新産業創出をめざす北欧/バルト諸国
このような動きは、本連載第32回以降、データ駆動型デジタルヘルスで取り上げてきた北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランド)やバルト諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア)でも本格化しつつある。
2025年6月18日、北欧閣僚会議傘下のノルディックイノベーションは、「北欧・バルト量子エコシステム」(関連情報)と題する報告書を発表している。この報告書は、本連載第100回で取り上げた北欧閣僚会議の「2030年ビジョン」(2019年8月20日公表、関連情報)を受けて、ポストSDGs時代の北欧地域を、世界で最も統合され、持続可能な地域にすることを目指す活動の一環である。
図2は、北欧/バルト諸国における量子コンピューティング(ハードウェア/ソフトウェア)およびその実現技術(Enabling Technologies)の産業分布を示したものである。

図2 北欧・バルト諸国の量子コンピューティング(ハードウェア/ソフトウェア)、実現技術産業分布[クリックで拡大] 出所:Nordic Innovation「Nordic-Baltic Quantum Ecosystem」(2025年6月16日)を基にヘルスケアクラウド研究会作成
量子コンピューティングは、先進的なハードウェアの構築だけでなく、量子システム特有の方法で問題を構造化し、解決するための新たなアルゴリズムやソフトウェアの開発も含まれる(例:量子化学、材料シミュレーション、組合せ最適化、素因数分解、機械学習、大規模な方程式系の解決など)。量子コンピューティングは、クラウドベースのプラットフォームおよびオンプレミスベースの専用量子ハードウェアの双方で実行可能であり、QaaS(Quantum Computing as a Service)を利用すれば、物理的な量子プロセッサを所有することなく、量子アプリケーションの実験や開発を行うこともできる。
この報告書では、医療/ウェルビーイング分野における量子コンピューティングの用途として、以下のような例を挙げている。
- 分子シミュレーションによって創薬を加速する
- ゲノムおよび臨床データを活用して個別化医療を実現する
- パンデミック対応のため、ワクチンや治療法の開発を迅速化する
- 生物学的プロセスをモデル化して疾患の理解を深める
次に、図3は、量子センシング、量子コミュニケーション、量子関連ビジネスサポートの産業分布を示したものである。

図3 北欧・バルト諸国の量子センシング、量子コミュニケーション、量子関連ビジネスサポート産業分布[クリックで拡大] 出所:Nordic Innovation「Nordic-Baltic Quantum Ecosystem」(2025年6月16日)を基にヘルスケアクラウド研究会作成
量子センシングは、重ね合わせ(superposition)、量子もつれ(entanglement)、量子化されたエネルギー準位などの量子力学的効果を利用して、物理量を非常に高い精度で検出/測定する技術である。
この報告書では、医療/ウェルビーイング分野における量子センシングの用途として、以下のような例を挙げている。
- 量子強化イメージング(例:MRI、携帯型マイクロMRI、脳磁図[MEG])
- 高感度バイオセンサーによる疾患の早期かつ正確な検出(例:がん、認知症、心疾患、神経系疾患)
他方、量子コミュニケーションは、量子粒子特有の性質を利用して、データのやりとりをより安全にする技術である。全てのメッセージのビットを量子粒子として送るわけではなく、破られることのない暗号鍵を生成することによってセキュリティを確保する。
欧州全域では、欧州量子通信インフラストラクチャ(EuroQCI)イニシアチブ(関連情報)の下で、政府機関、重要インフラ、国境を越えた通信における量子鍵配送(QKD)の技術的実現性と政策的意義を示すことを目的としたテストネットワークの構築が進行している。
このような動きと並行して、量子耐性暗号(PQC)と呼ばれる技術も開発されている。これは、将来の量子コンピュータによる攻撃に耐性を持つよう設計された暗号アルゴリズムであり、情報セキュリティの長期的課題に対応するものである。PQCは、本連載第107回で取り上げたプライバシー強化技術(PETs)を補完する技術として注目されており、北欧・バルト諸国の電子政府プラットフォームや金融・情報通信業で研究開発が進んでいる。
量子技術における日本と北欧/バルト諸国間の連携強化
さらに2025年8月26日、ノルディックイノベーションは、北欧地域を量子技術の拠点とするためのパイロットプロジェクトを発表した(関連情報)。具体的なプロジェクトは、以下の2つである。
- 北欧量子技術プレインキュベーションプログラム:量子技術における研究と起業のギャップを埋めることを目的とした、北欧版プログラムの設計を行う
(プロジェクトリード)バイオイノベーション・インスティテュート(デンマーク、関連情報) - 北欧の強靭な重要インフラ(ReCIN):エネルギー、水、通信などの北欧地域の重要インフラのレジリエンスを強化するために、量子技術を活用した応用例を特定する
(プロジェクトリード)デンマーク量子コミュニティー(デンマーク、関連情報)
これら2つのパイロットプロジェクトの開始により、ノルディックイノベーションは、「意欲的な国境を越えたパイロットプロジェクトの開始」という目標の実行に向けた第一歩を踏み出し、量子技術における北欧の協力を加速させるとしている。
ちなみに両プロジェクトを主導するデンマークは、2025年下半期の欧州連合理事会議長国でもあり、AIと量子技術は欧州全域のイノベーションの重点分野となっている(関連情報)。
日本では、内閣府が2025年6月6日に公表した「統合イノベーション戦略 2025」(関連情報)において、AIと並ぶ重要分野として量子技術を掲げ、量子技術と基盤技術(AI技術や古典計算基盤など)の融合推進を打ち出している。このような状況下、日本の量子技術に関わる研究/教育機関や産業界も、北欧/バルト諸国との交流を活発化させている。量子技術のスケーリング課題解決や商用化の実現に向けて、どのような国際連携が展開されるのか、今後が注目される。
筆者プロフィール
笹原英司(ささはら えいじ)(NPO法人ヘルスケアクラウド研究会・理事)
宮崎県出身。千葉大学大学院医学薬学府博士課程修了(医薬学博士)。デジタルマーケティング全般(B2B/B2C)および健康医療/介護福祉/ライフサイエンス業界のガバナンス/リスク/コンプライアンス関連調査研究/コンサルティング実績を有し、クラウドセキュリティアライアンス、在日米国商工会議所、グロバルヘルスイニシャチブ(GHI)等でビッグデータのセキュリティに関する啓発活動を行っている。
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