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よみがえる明治大正の町工場の音、工作機械の“生きた教材”ごろごろモノづくりショールーム探訪(2/3 ページ)

電動機のスイッチを入れると、白色電球がともる薄暗い工場内で、ベルトを介して動力が伝わった旋盤が動き出した――。日本工業大学の工業技術博物館は工作機械を約270台所蔵し、7割以上が実際に稼働できる動態保存になっている。同博物館の館長である清水伸二氏に、動態保存の舞台裏、同博物館の果たす役割、今後の工作機械産業の展望などを聞いた。

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技術進歩の痕跡の数々、マザーマシンにふさわしい名機

 その後、紀元前からの動力源の変遷、足踏み旋盤、手回し動力のコーナーを経て、再び復元された工場が現れた。1914年(大正3年)創業の山本工場だ。

1914年創業の山本工場
1914年創業の山本工場[クリックで拡大]

 ライオン歯磨の金属瓶口、缶類など製造していた東京市浅草区(現在の台東区)の工場を復元したもので、木材張りの床にはブラッドフォード製やモナーク製の旋盤、ケンプスミス製の万能フライス盤、アメリカンツールワークス製の平削り盤など米国製の工作機械がずらりと並ぶ。

「この工場の面白いところは、1台だけ池貝製の旋盤があることだ。この旋盤はベッドの案内面の形状がまだ平らだが、米国製は山型になっている。山型だと加工する金属が自重により動かず、隙間ができないので水平方向の剛性が高い。その後の国産旋盤は全て山型になっており、ここにも技術を学んでいった跡が見られる」(清水氏)

山本工場の設備もまだ動かすことができる[クリックで再生]

 博物館の端から端まで何度も折り返しながら旋盤がずらりと並ぶ。

「マニュアル旋盤を年代順に並べており、1938年(昭和13年)に新潟鉄工所で製作されたS型旋盤も置かれている。これは、第二次世界大戦が始まる頃になると外国製機械の輸入が困難になり、政府が当時の工作機械5大メーカー(池貝鉄工所、大隈鐵工、唐津鉄工、新潟鉄工、東京瓦斯電気工業)に、他のメーカーでも製造可能で、より高度な工作機械の標準的な図面を、各社が得意な機種について作成させ、工作機械を増産させた時の機械をS型と呼んでいる」(清水氏)

1938年製の新潟鉄工所のS型旋盤
1938年製の新潟鉄工所のS型旋盤。右は館長の清水伸二氏[クリックで拡大]

 現在の精密機械とは異なり、当時の工作機械にはカバーがないため、内部構造を直接見られるのも大きな見どころだ。

「構造が見られるため、学生が材料力学などを復習するのにも適していて、いろいろなクイズが出せる生きた教材になっている。例えば、この池貝製の旋盤は、プラット&ホイットニー製の旋盤をモデルにして作っていて、そっくりだ。でも違いがある。それは何か」(清水氏)

 確かに1935年(昭和10年)頃のプラット&ホイットニー製の旋盤と、1936年(昭和11年)の池貝鉄工製の旋盤は驚くほどよく似ている。

同年代の米国製(左)と国産(右)の旋盤[クリックで拡大]

「一番の違いは高さだ。池貝製は日本人の体格に合わせて作っている。また、米国製は注文する際に、インチかmmどちらかの使用を選択する必要があるの対し、池貝製はインチとmmの切り替え仕様になっていて、国内で使うだけでなく海外輸出まで考えている。こんなところにも先人のより良いものを作ろうとする努力の跡が見られる」(清水氏)

 日本のマニュアル旋盤技術の粋が結集した伝説的な名機も必見だ。

「この三菱重工と池貝、大隈鉄工製の3台は“マニュアル機成熟期の3大旋盤”と呼ばれている。特に池貝の旋盤は日本で初めて工業デザイナーが設計した旋盤だといわれ、マニュアルの機械にボールねじを採用し、2つの送り駆動系をシンプルにした画期的なものだった。操作性を考慮して、ハンドルの位置や握りまで考えられている。だが、3台の中で一番売れなかったそうだ。従来の操作に慣れていた職人は、三菱や大隈の方を好んだという。昔も今も商売の難しさに変わりはない」(清水氏)


3大旋盤と呼ばれる3台。手前から三菱重工業、池貝、大隈鉄工製[クリックで拡大]
日本で初めて工業デザインが導入された池貝製の旋盤
日本で初めて工業デザインが導入された池貝製の旋盤[クリックで拡大]

板カムから紙テープ、そしてコンピュータへ

 館内を折り返す形でタレット旋盤や自動旋盤が置かれ、旋盤の進化の歴史が一目で分かる展示になっている。それに続いて、順路の先には、フライス盤、ボール盤、ジグ中ぐり盤、研削盤などが所狭しと並び、展示されている。

「まずは人力から始まり、足踏み旋盤が登場し、モーターができて普通旋盤が登場した。さらに複数の工具を装着して連続して使用できるタレット旋盤が生まれ、板カムとリンクで工具選択、切り込み、送りなどを制御できる自動盤となり、それがNC(数値制御装置)へと進化していった。でも、その前に“NCまがいの機械”もあった」(清水氏)

 清水氏が「普段はあまり注目されないが」と言いながら立ち止まったのは、1962年(昭和37年)製のピンボード方式プログラム制御のフライス盤(松浦機械製作所)だった。

「これは、ピンを差し込む位置の組み合わせと、各所のリミットスイッチの信号電流によって機械を動かす仕組みになっている。当時は“プロコン”と呼ばれていた。ピンを差し込むだけでプログラムができ、何番のプログラムまで進んだかランプで分かる」(清水氏)

ピンボード方式制御の立形フライス盤
ピンボード方式制御の立形フライス盤[クリックで拡大]
ピンを差し込む位置の組み合わせとリミットスイッチの信号電流で動く
ピンを差し込む位置の組み合わせとリミットスイッチの信号電流で動く[クリックで拡大]
紙テープに穴を開けてプログラムを制御した。熟練者は、穴の開け方でプログラムを解読できたという
紙テープに穴を開けて加工プログラムを制御した。熟練者は、穴の開け方でプログラムを解読できたという[クリックで拡大]

 その次に解説してくれたのが、1971年(昭和46年)製のNCフライス盤(牧野フライス製作所、制御部分はファナック)だ。

「当初は紙テープに穴を開けることにより、加工したい手順をあらかじめプログラムしておき、このプログラムをNC装置のテープリーダで光学的に読み取り、機械を動かす仕組みだった。つまり、プログラムを板カムから紙テープに記憶させるように進化したのだ。だが、紙なので何度も使っているとヘタってしまい、機械が誤作動を起こすことがあった。熟練者は、穴の開き方でプログラムを解読できたので、テープリーダでプログラムを読み込ませる前にミスがないか透かして確認していた」(清水氏)

 そして、ついにコンピュータ内蔵のNC旋盤が登場する。1978年(昭和53年)製のNC旋盤(池貝鉄工、制御部分はファナック)だ。

「この黒い大きいビデオテープのようなものがメモリだ。これに加工プログラムを記録できるようになった。当時は“テレビ旋盤”と言って、初めてディスプレイが付いたNC装置になった」(清水氏)

 NCになって以降も旋盤はさらに進化を遂げていく。ターニングセンタ、マシニングセンタなど各時代の名機がずらりと展示されており、見応えは十分だ。

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